2012年7月25日水曜日

北海道大学少林寺拳法部第2回学生大会記念写真

第2回少林寺拳法学生大会 北大少林寺拳法部
合掌
写真の裏に記載されているものによると
昭和46年十一月三日、第二回少林寺拳法全道学生大会。
総合第二位、総合組演武二位、団体乱取三位、団体演武三位とあった。

私は、一年後輩の伊藤誠君と演武を組んだ。組演武の結果は最高点であったと記憶している。(ただ単なる思い出であるのでご容赦)

乱捕りでは、左待気構から蹴で相手の金的に入り、相手が立ち上がった後10秒くらいで倒れ込みそれで続行不可能となった。相手はかなり長身であったことを記憶している。いつも、そのことを申し訳なく思い続けていた。

しかし、その後私の道院の歴史での中盤、外国人との乱捕りではいつも金的蹴を使わせてもらった。190センチの大男を相手に金的蹴りが最もよき技術であった。その結果入門してきたようだ。
今、シカゴのブランチマスターのマイケル イーストウッド 拳士もその内の一人であったと記憶している。彼も長く私の道院に在籍していた。

35年前の道院開設した頃、道場破りと称してやって来た空手の初心者(流派は敢えて伏せる)との、まあ稽古であったが。
甲での下段蹴りに対しては前足底による下段蹴でのお返し、或いは勿論ベアーナックル(グローブ等なかったので)での稽古であり、上段への当身そして軽く金的蹴も大いに使わせて頂いた。
体育館全体を隈なく使い、記憶によると相手のまいったという言葉にも耳をかさず 乱捕りを継続した。

未熟な乱捕りで前歯は差し歯という拳士が多いのではないか。私もご他聞にもれない。
今では考えられないが、田舎で始めた少林寺拳法に対抗してきた若者が結構いたのである。自分は空手をやっているのだが他の武道と乱捕りをしたいと申し出てきた若者がやって来たのである。
つまり、一般に言う道場破りである。道院開設時は、負けられない実戦の日々が続いた。
暴走族の解散等実際に実力行使で成し遂げたこともある。

彼等の中から数名が少林寺拳法に入門して来た。その中には、四段まで昇格した者もいたと記憶している。いつだったか、その拳士が当時の私に稽古が荒っぽかったとインターネットに書き込みしたのを偶然見た事がある。
始めた当時は、柔法等の高度な技術力を持っていなかったので、三時間の稽古の大半は乱捕り。始めた当時は女性はいなくて、若い男連中ばかりであった。
肋骨を折った等というのは日常茶飯事であったように記憶している。今では考えられないが怪我はつきもの、下受けによるあおたん、あざだらけを得意気にしていた時代だったようだ。

当時は、現在の演武のように華麗或いは速度を極めるものではなく、法形のひとつひとつが実戦さながらのものであったように思う。
上段突において大きな違いがあるようだ。いわゆる単なる手突きになっていては護身では使えないことに気がつくべきである。怪我をしないように安全にということを、稽古と言う意味においてはきちがえているからであろう。

私自身がまだまだ指導者として未熟であった若いときに田舎において指導を始めたのであるから、今思うと当時の拳士に対してただ申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

それでも当時から今に至るまで、「闘わなくとも闘える少林寺拳法を護身として身につける稽古に明け暮れた35年」であったかもしれない。

この映像に野坂、池上がいます。大月君もいるかもしれない。大月拳士は今五段を当面の目標に砂川道院所属で毎週金曜日砂川に岩見沢から稽古に来て理論を極めようと奮闘努力している。

合掌再拝 池上

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