合掌
今後、私からの連絡については、ブログの中で行いますのでそちらから私に関する情報を得てください。
信徒香資等の手続きにおいて、自分で出来なくて、家族に依頼する方もいるでしょうが、家族の方もそんな面倒くさいものならもうやめてしまったら等となっては何もならなくなります。
もし、手続き上自分で出来ない場合は私に連絡してください。
パソコン処理については代行等指導します。
依頼を受けている拳士家族の人については問題なく処理できています。
慣れない携帯、パソコン処理等についてはできなくて当然ですので気にしないようにしてください。
あらゆるパソコン携帯からの処理に関して、入り口が多すぎて理解し難いことは良く分かります。
こうした処理の面倒くささから少林寺拳法から去ってしまうことは、指導者として慙愧に堪えません。
6月の信徒香資の手続きは、今週から北海道が開始されています。
分からない人は私の方に遠慮なくお知らせください。
合掌再拝
2011年6月14日火曜日
2011年6月13日月曜日
北海道武道専門コース6月 北海道連盟被災地へ
合掌
6月12日(日曜日)秋田工業高校遠田先生が本部より派遣され2011年度の武専コースの入学式が開催された。
予科、本科合計確か19名であったか?
松林拳士も本科に入学、いよいよ少林寺への道!
旭川南高校にも努力により同好会が正式発足、正式クラブの設立も近いことだろう。
私は、新年度から正式になった武専研究院を指導。
ここでのカリキュラムは、前校長の山﨑先生の長年の研究成果を取り入れたものの指導。
ここでは詳細を述べることはできないが、吸収する力を中心に研究をした。
私なりに、輪ゴムの論理を示しながら、力を如何に扱うかを実際に示しながら指導。
この日、担当を外れていた、大山、成田T 先生にも得意分野を一緒に指導してもらった。
参加した学生は、今年度から授業料を払っての特別な科にあって、将来のさらに上を目指した指導をできる分野の世界を目指しての稽古であった。
私も、7月には千葉武専の指導に行くために、その稽古としても充実の一日であった。
また、道東補講の26日は、野坂先生の担当であったが、評議委員会の関係で本部出張、がために、私が釧路へ行くことになりました。先月に続いての道東。
昨日のBSで、久しぶりに嵩山少林寺の映像をみた。日本のタレントが子供の頃、あこがれた映画少林寺の思い出でと共に少林寺を訪問し短期の修行というもの。
私が、1978年に始めて訪問その後の中国室としての訪問等、当時の徳禅和尚の側近?が今の少林寺の総責任者当時の写真に写っている。
映像としては懐かしいものであるが、今や観光客で溢れかえる1978年では考えられない現状。
世界遺産を目指しているようだが禅の発祥の地からしてそれはのぞましいが果たしてどうなるのか。
私の息子二人も中国の大学を卒業し、長男は鄭州大学の中国人本科、記念すべき日本人卒業生一期。少林寺拳法とは関係なく入学卒業した。川島先生の門下生とは、鄭州の寮で縁があったようだ。
国際関係がギクシャクする中で、「中国の動向を常に注視していかなければ」とういう開祖の言われたことが常に頭に浮かぶ。
さて、武専の合間に連盟の常任理事会が行われ、相談役の私にも被災地に関わるアドバイスをもらいたいということで出席した。
野坂理事長が、6月17日から20日まで被災地を訪問するということであった。
私のアドバイスとしては、八戸から岩手、宮城と一般国道を南下し、被災地を実際に目に焼き付けてくるように伝えた。テレビの四角い枠を見るのと、実際の被災を見るのは全く違う、考え方が変わることを伝えた。連盟として正式に訪問するのは、震災から3ヶ月という遅きに失したが、それでも今から出来る継続した絆は築くことはできるはず。
漸く行くことになり、これはこれで実に良かった。理事長としての信頼は取り戻すことが出来るのではないか。
開祖の、まず行動だ。前進だ。仲間のために。 使命感を凝縮した行動とは何かを一人ひとりが自分問いかけようではないか。
19日は中学生大会が開催されるが、担当者に任せての被災地訪問。
斉藤専務理事も、空路被災地に行きますと私に報告がありました。その際、必ず、千葉会長に今回の訪問予定を知らせるように伝えた。
私が連休中に訪問の際、千葉会長が一緒に行くというのを私が留めた経緯があるがため、理事長が正式に行くのであれば執行部としてお伝えしなさいと専務理事に伝えた。
将来を背負ってたつ人間が今回のような大災害時に、被災地に一度も足を踏み入れない等考えられないことだと強くアドバイスした。
総会で私が強く主張した被災地との心の絆が、これで漸く築かれ東北北海道の絆が強固になるのではないか。
既に、北海道連盟から100万を岩手、宮城、福島のそれぞれの連盟に30万、少林寺基地に10万を送金したとの事が報告された。
200万をさらに送金することになっている。
一応、宿泊については陸前高田の基地がいいのではないかとアドバイスした。
さて、15日16日、北電の警護(熊から)に行く予定です。熊を撃ちに行くのではなく、熊から北海道電力の高圧線の目視観察の同行。勿論笹薮なりかなり危険な同行。もちろんライフル銃を所持して行きます。稽古には影響のない時間帯です。
滝川道院・砂川道院の信徒香資の振込み手続きが6月から開始されましたが、分からない場合私の方に連絡して下さい。
合掌再拝 池上
6月12日(日曜日)秋田工業高校遠田先生が本部より派遣され2011年度の武専コースの入学式が開催された。
予科、本科合計確か19名であったか?
松林拳士も本科に入学、いよいよ少林寺への道!
旭川南高校にも努力により同好会が正式発足、正式クラブの設立も近いことだろう。
私は、新年度から正式になった武専研究院を指導。
ここでのカリキュラムは、前校長の山﨑先生の長年の研究成果を取り入れたものの指導。
ここでは詳細を述べることはできないが、吸収する力を中心に研究をした。
私なりに、輪ゴムの論理を示しながら、力を如何に扱うかを実際に示しながら指導。
この日、担当を外れていた、大山、成田T 先生にも得意分野を一緒に指導してもらった。
参加した学生は、今年度から授業料を払っての特別な科にあって、将来のさらに上を目指した指導をできる分野の世界を目指しての稽古であった。
私も、7月には千葉武専の指導に行くために、その稽古としても充実の一日であった。
また、道東補講の26日は、野坂先生の担当であったが、評議委員会の関係で本部出張、がために、私が釧路へ行くことになりました。先月に続いての道東。
昨日のBSで、久しぶりに嵩山少林寺の映像をみた。日本のタレントが子供の頃、あこがれた映画少林寺の思い出でと共に少林寺を訪問し短期の修行というもの。
私が、1978年に始めて訪問その後の中国室としての訪問等、当時の徳禅和尚の側近?が今の少林寺の総責任者当時の写真に写っている。
映像としては懐かしいものであるが、今や観光客で溢れかえる1978年では考えられない現状。
世界遺産を目指しているようだが禅の発祥の地からしてそれはのぞましいが果たしてどうなるのか。
私の息子二人も中国の大学を卒業し、長男は鄭州大学の中国人本科、記念すべき日本人卒業生一期。少林寺拳法とは関係なく入学卒業した。川島先生の門下生とは、鄭州の寮で縁があったようだ。
国際関係がギクシャクする中で、「中国の動向を常に注視していかなければ」とういう開祖の言われたことが常に頭に浮かぶ。
さて、武専の合間に連盟の常任理事会が行われ、相談役の私にも被災地に関わるアドバイスをもらいたいということで出席した。
野坂理事長が、6月17日から20日まで被災地を訪問するということであった。
私のアドバイスとしては、八戸から岩手、宮城と一般国道を南下し、被災地を実際に目に焼き付けてくるように伝えた。テレビの四角い枠を見るのと、実際の被災を見るのは全く違う、考え方が変わることを伝えた。連盟として正式に訪問するのは、震災から3ヶ月という遅きに失したが、それでも今から出来る継続した絆は築くことはできるはず。
漸く行くことになり、これはこれで実に良かった。理事長としての信頼は取り戻すことが出来るのではないか。
開祖の、まず行動だ。前進だ。仲間のために。 使命感を凝縮した行動とは何かを一人ひとりが自分問いかけようではないか。
19日は中学生大会が開催されるが、担当者に任せての被災地訪問。
斉藤専務理事も、空路被災地に行きますと私に報告がありました。その際、必ず、千葉会長に今回の訪問予定を知らせるように伝えた。
私が連休中に訪問の際、千葉会長が一緒に行くというのを私が留めた経緯があるがため、理事長が正式に行くのであれば執行部としてお伝えしなさいと専務理事に伝えた。
将来を背負ってたつ人間が今回のような大災害時に、被災地に一度も足を踏み入れない等考えられないことだと強くアドバイスした。
総会で私が強く主張した被災地との心の絆が、これで漸く築かれ東北北海道の絆が強固になるのではないか。
既に、北海道連盟から100万を岩手、宮城、福島のそれぞれの連盟に30万、少林寺基地に10万を送金したとの事が報告された。
200万をさらに送金することになっている。
一応、宿泊については陸前高田の基地がいいのではないかとアドバイスした。
さて、15日16日、北電の警護(熊から)に行く予定です。熊を撃ちに行くのではなく、熊から北海道電力の高圧線の目視観察の同行。勿論笹薮なりかなり危険な同行。もちろんライフル銃を所持して行きます。稽古には影響のない時間帯です。
滝川道院・砂川道院の信徒香資の振込み手続きが6月から開始されましたが、分からない場合私の方に連絡して下さい。
合掌再拝 池上
2011年6月6日月曜日
北海道高校大会
合掌
北海道高校大会がこの4日5日、岩見沢東高校において開催された。
年々関係教員の努力で活気を呈しているようだ。
岩見沢東の美術の教員小林拳士(北海道武専で指導した経験がある。)がわざわざ私の自宅までパンフレットを直接届けていただきました。
私が空知ブロック長であることから届けてくれたとのこと。
小林先生は日本酒の愛好者とのこと、この時知りました。
さて、砂川高校の小林拳士(滝川道院所属)が初段で単独演武に出場した。
畑教員(砂川道院所属)が状況を逐一報告してくれた。
小林拳士単独演武予選Aコートで2位。
日曜日決勝にて、A、Bコートから予選通過した中で6位入賞。
最優秀は、昨年中学生大会において、三浦広大拳士が最優秀をとった時に出場した拳士だとのこと。
その時には、彼は予選落ちしたが、高校の最初の大会で見事に最優秀を得たわけだから、努力が実を結んだのだろう。
報告によると、スピードがあり、その速さに多くの得点が入ったのではないかとのこと。私は見ていないのだが、いずれにしても、どんな審判であろうと、その審判員が納得するだけの演武であったのだろう。
小林拳士も大いに努力したであろうし、二段が多い中での6位入賞は良かったのではないか。
砂川道院の拳士は、昇格においてただ受験資格の時間が来たから受験するという拳士は少ない。十分、稽古した後に受験し、それだけに過去誰一人受験に失敗した拳士はいない。
小林拳士は、小学校のときに最優秀賞を得た等の経験は無駄にはなっていない。そのときには、審判団に最優秀の判断をしてもらえた。
演武というものは非常に難しいものだ。
特に単独演武は、審判講習でも指導しているつもりだが、上段突き一つにしても、どのような角度、速度、間合い等で行うのかが問われる。こうした見極めの判断が非常に難しい。審判するものにとって、高度な知識を求められるだけに、その責任は重い。
指導者が、天地拳の単独演武を実際にこなして、十分に理論的構築をなされているかが大事である。
戦えない少林寺拳法の技法に陥って来ている最近の傾向は由々しき事態である。
戦える技術は、ただ単に速度だけで推し量れないだけに困難を極める。
しかし、演武は見ているものに錯覚を与えようが、うまいなと思わせたら審判の判断が上がるのは致し方ないのかも知れない。
それでいいとは言えないのは当然だが、実戦において耐えうるだけの技量はすぐには身につかないのかもしれない。
稽古稽古あるのみ。法形のみならず、日々の稽古で乱捕りの稽古を決してはずしてはならない。
指導者の道院長は、年齢に関わらず、護身の技術を持ってして他を納得させることが出来る少林寺拳法を表現してもらいたいものだ。
少林寺拳法の凄さを知らず、日々のんべんだらりでは何ら役にはたたない。
もっともっと、他の素晴らしい指導者の技術を身につけるべく、努力をしなければならないのではないか。
先生先生と呼ばれるうちに、努力を怠る精神構造になってしまわないように、気をつけることが、大事大事!
他人は口には出さない。
心で見られていることを忘れてはならない。
指導者が努力することから真っ先に逃げてしまわないように、あらゆることに挑戦する以外にないのである。
砂川高校に、砂川道院、滝川道院から入学する拳士が続けば、砂川高校にも正式に少林寺拳法部が出来るだろう。
滝川高校、砂川高校と、そして、滝川西高校(一時期少林寺拳法部があった。)にも少林寺拳法部ができれば、基盤が強固になるであろう。
学業と少林寺拳法の活動が相俟って人づくりの絆が強くなるであろう。
高校卒業後は、北大、札幌学院大学、北翔大学の少林寺拳法部に入部する流れができれば、いい人生を構築できるものと信じているところです。
松林拳士からも、旭川南高校にも現在8名ほどの少林寺拳法をやる学生がいるようで、高(たか)教員と協力して、また一つクラブができれば幸いだ。
彼等なら、技術的にも意欲も心配ないであろう。
日本中の拳士が、中学・高校生に対して少林寺拳法の素晴らしさを説き指導するように心から期待するものです。
今日、7月の2日3日の千葉武専への出張のための航空券を頼んだ。
2日土曜日の稽古を終了してから、夕方の便で羽田に向かうので、土曜日の稽古はいつもの通りです。
稽古には、いつでも万難を排して参加してください。
私も頑張っています!
日々の鎮魂行は、道院だけではなく、自宅において毎朝行ってください。
合掌 池上
北海道高校大会がこの4日5日、岩見沢東高校において開催された。
年々関係教員の努力で活気を呈しているようだ。
岩見沢東の美術の教員小林拳士(北海道武専で指導した経験がある。)がわざわざ私の自宅までパンフレットを直接届けていただきました。
私が空知ブロック長であることから届けてくれたとのこと。
小林先生は日本酒の愛好者とのこと、この時知りました。
さて、砂川高校の小林拳士(滝川道院所属)が初段で単独演武に出場した。
畑教員(砂川道院所属)が状況を逐一報告してくれた。
小林拳士単独演武予選Aコートで2位。
日曜日決勝にて、A、Bコートから予選通過した中で6位入賞。
最優秀は、昨年中学生大会において、三浦広大拳士が最優秀をとった時に出場した拳士だとのこと。
その時には、彼は予選落ちしたが、高校の最初の大会で見事に最優秀を得たわけだから、努力が実を結んだのだろう。
報告によると、スピードがあり、その速さに多くの得点が入ったのではないかとのこと。私は見ていないのだが、いずれにしても、どんな審判であろうと、その審判員が納得するだけの演武であったのだろう。
小林拳士も大いに努力したであろうし、二段が多い中での6位入賞は良かったのではないか。
砂川道院の拳士は、昇格においてただ受験資格の時間が来たから受験するという拳士は少ない。十分、稽古した後に受験し、それだけに過去誰一人受験に失敗した拳士はいない。
小林拳士は、小学校のときに最優秀賞を得た等の経験は無駄にはなっていない。そのときには、審判団に最優秀の判断をしてもらえた。
演武というものは非常に難しいものだ。
特に単独演武は、審判講習でも指導しているつもりだが、上段突き一つにしても、どのような角度、速度、間合い等で行うのかが問われる。こうした見極めの判断が非常に難しい。審判するものにとって、高度な知識を求められるだけに、その責任は重い。
指導者が、天地拳の単独演武を実際にこなして、十分に理論的構築をなされているかが大事である。
戦えない少林寺拳法の技法に陥って来ている最近の傾向は由々しき事態である。
戦える技術は、ただ単に速度だけで推し量れないだけに困難を極める。
しかし、演武は見ているものに錯覚を与えようが、うまいなと思わせたら審判の判断が上がるのは致し方ないのかも知れない。
それでいいとは言えないのは当然だが、実戦において耐えうるだけの技量はすぐには身につかないのかもしれない。
稽古稽古あるのみ。法形のみならず、日々の稽古で乱捕りの稽古を決してはずしてはならない。
指導者の道院長は、年齢に関わらず、護身の技術を持ってして他を納得させることが出来る少林寺拳法を表現してもらいたいものだ。
少林寺拳法の凄さを知らず、日々のんべんだらりでは何ら役にはたたない。
もっともっと、他の素晴らしい指導者の技術を身につけるべく、努力をしなければならないのではないか。
先生先生と呼ばれるうちに、努力を怠る精神構造になってしまわないように、気をつけることが、大事大事!
他人は口には出さない。
心で見られていることを忘れてはならない。
指導者が努力することから真っ先に逃げてしまわないように、あらゆることに挑戦する以外にないのである。
砂川高校に、砂川道院、滝川道院から入学する拳士が続けば、砂川高校にも正式に少林寺拳法部が出来るだろう。
滝川高校、砂川高校と、そして、滝川西高校(一時期少林寺拳法部があった。)にも少林寺拳法部ができれば、基盤が強固になるであろう。
学業と少林寺拳法の活動が相俟って人づくりの絆が強くなるであろう。
高校卒業後は、北大、札幌学院大学、北翔大学の少林寺拳法部に入部する流れができれば、いい人生を構築できるものと信じているところです。
松林拳士からも、旭川南高校にも現在8名ほどの少林寺拳法をやる学生がいるようで、高(たか)教員と協力して、また一つクラブができれば幸いだ。
彼等なら、技術的にも意欲も心配ないであろう。
日本中の拳士が、中学・高校生に対して少林寺拳法の素晴らしさを説き指導するように心から期待するものです。
今日、7月の2日3日の千葉武専への出張のための航空券を頼んだ。
2日土曜日の稽古を終了してから、夕方の便で羽田に向かうので、土曜日の稽古はいつもの通りです。
稽古には、いつでも万難を排して参加してください。
私も頑張っています!
日々の鎮魂行は、道院だけではなく、自宅において毎朝行ってください。
合掌 池上
2011年5月23日月曜日
被災地NO4完 陸前高田から北海道へ
4日朝陸前高田の少林寺拳法活動基地にて朝食を一緒にとり、その後私たちは皆さんに別れを告げ後ろ髪をひかれる思いで基地を後にしました。
別れる際、愛知県連盟の副理事長が名刺をというので、持っていた札幌学院大学少林寺拳法部の監督の名刺を差し上げました。頂いた名刺を拝見して愛知県連盟の副理事長であることを知りました。東海武専には何度か派遣されたことを話したのですが、どうも私の印象は薄かったようです。
基地の坂をおり、張った団旗を見ながら一路青森を目指しました。
前日、陸前高田市の災害対策本部において、帰路の高速道路が無料になる支援物資の陸前高田市長名の受領書をもらいました。
往路は一般道を走り被災地を隈なく見ることが出来たのですが、帰路はできるだけ早く戻ることで時間の節約を図ることとしたかったわけです。
宮末先生のランドクルーザーは時速80キロを限度として走行することにしており、高速に入ってもそれほど無理な走行にはなりません。帰路の高速道路、かなりの雨が降っているのも時間を要しました。途中私が運転、慣れないマニュアルのため宮末さんがかなり心配されたようです。
青森発11時半のフェリーには間に合わないであろうという宮末さんの判断。私は、何とかぎりぎりに着けば、乗れるだろうという期待を持って、時速90キロを、横で寝ている宮末さんを横目に走行。
青森港に着いたのは出発時間の5分前、雨であること、連休の最終に近い日時、被災の関係で観光客の激減、恐らく一台でも乗せたい船会社の思惑を予想し何とか乗れるのでないかと!
宮末さんに兎に角、受付に行ってみてと私。戻ってきた宮末さん、先生直接2番ゲートへ行って、乗れるからと!
この後、4時間を待たなくて済むことが出来ました。予想通り、船内はガラガラ、被災の影響が諸に出ていることを知った。
船内で、宮末さんが、道東のある町長が乗っていると告げられた。恐らく被災地へ行って来たのだろうと予想された。
船内では日本ハムのゲームをテレビ中継されていた。中田が丁度打席に立っていた。電波の状況も悪かったが、昼食とも言えない昼食をとり、被災地を思いやりながら函館に到着するのを待った。こうしたゆっくりした船の時間は昭和50年以来のことだった。
27次南鯨事業参加以来の船旅。
余りにも静かな穏やかな海、低気圧の接近による風が強かったが、津軽海峡が荒れることは無かった。
函館到着の後、大沼公園(ここで何かのイベントのため渋滞に巻き込まれた)を過ぎ、やがて高速道路に入った。
札幌南インターで高速道無料の関係で担当者とやや議論、しかし、無料で通過。
午後9時過ぎに砂川奈井江インターで道路公団職員とやや口論となった。つまり、被災地の受領書だけでは駄目で、上から、各自治体の無料の更なる書類手続き用紙を必要とするのでそれを用意して欲しいとのこと。
今から、この夜中に疲れ切った状況で取りにいけというのか、こんな夜中に役所が開いている訳が無い、それは無理な要求だ。
いや、後から届けてもらってもいい。
この人は今から、砂川で私をおいて、北見に走る別の書類の要件は無理がある。
いや、お客さんの言われることが最もなのだが、私たちにこうした書類を出すようにとのお達しがあるので仕方が無いのです。
青森の道路公団では、その受領書をコピーして通過させてくれた。
いや、向こうは被災地なので、その別の書類は、提出しなくてもいいことになっています。
しかし、被災地に赴く人間は、道北道、北海道関係なく通過するのだから、その都度、どこの自治体でもいいから別書類を持ってきてくれというのはおかしな話だ。
それこそ、お役所仕事で、その書類を例え持って来たとして誰に提出するのか、被災地の陸前高田市長の名の入った受領書があれば、それで済むはず。
陸前高田の担当者は、それこそ水戸黄門の印籠と同じとまで言っていたよ。
ここで、議論するのは本意ではなかったが、しかし、日本の全体の共有することだけに、こうしたお役所仕事的書類提出には断固反対した方が良いであろうと、私が交渉。
最終的に相手が根負けして、車のナンバー、受領書の内容の記載後、通過した。
担当者も仕事を真面目にこなそうとした訳で、全く悪気はないのは百も承知。何かあれば連絡を寄越しますとのこと。
受領書は、宮末さんが携行することとなった。
そんなんで、自宅に到着が午後10時過ぎ。
宮末さんが軽い食事の後、休憩し、北見に向かった。
翌日は、5日連休最終日、この日かなり疲れてはいたが、被災地から戻ったことを関係者に連絡。
私の左側の喉をちょっと触ってもかなりの激痛が走った。
恐らくテント生活で枕が無かったために、リンパの流れが悪く、またかなりの冷え込みもあり、さらに強風による土埃等の影響の痛みではないかと。
これがこの後、一週間ほど続いた。痛みが取れると共に通常の生活に戻りつつあったが、心は被災地にあった。
被災地に赴くに当たってお世話になった関係者に心からお礼を申し上げたいと存じます。
8日の北海道武専の際、松村先生、福田先生にも会うことが出来るだろうし、その際、互いに思いを交換することができるだろうと思いを馳せた。
そして、今日も被災地の人たち、活動に参加している人たちへの思いを被災地に行く前とは違った感情を持ったのは事実。
是非、一度は被災地へ行くことを心から願う次第です。その場に立つことの意味はそこに立てば答えが自ずと分かるはずです。
合掌再拝 池上
別れる際、愛知県連盟の副理事長が名刺をというので、持っていた札幌学院大学少林寺拳法部の監督の名刺を差し上げました。頂いた名刺を拝見して愛知県連盟の副理事長であることを知りました。東海武専には何度か派遣されたことを話したのですが、どうも私の印象は薄かったようです。
基地の坂をおり、張った団旗を見ながら一路青森を目指しました。
前日、陸前高田市の災害対策本部において、帰路の高速道路が無料になる支援物資の陸前高田市長名の受領書をもらいました。
往路は一般道を走り被災地を隈なく見ることが出来たのですが、帰路はできるだけ早く戻ることで時間の節約を図ることとしたかったわけです。
宮末先生のランドクルーザーは時速80キロを限度として走行することにしており、高速に入ってもそれほど無理な走行にはなりません。帰路の高速道路、かなりの雨が降っているのも時間を要しました。途中私が運転、慣れないマニュアルのため宮末さんがかなり心配されたようです。
青森発11時半のフェリーには間に合わないであろうという宮末さんの判断。私は、何とかぎりぎりに着けば、乗れるだろうという期待を持って、時速90キロを、横で寝ている宮末さんを横目に走行。
青森港に着いたのは出発時間の5分前、雨であること、連休の最終に近い日時、被災の関係で観光客の激減、恐らく一台でも乗せたい船会社の思惑を予想し何とか乗れるのでないかと!
宮末さんに兎に角、受付に行ってみてと私。戻ってきた宮末さん、先生直接2番ゲートへ行って、乗れるからと!
この後、4時間を待たなくて済むことが出来ました。予想通り、船内はガラガラ、被災の影響が諸に出ていることを知った。
船内で、宮末さんが、道東のある町長が乗っていると告げられた。恐らく被災地へ行って来たのだろうと予想された。
船内では日本ハムのゲームをテレビ中継されていた。中田が丁度打席に立っていた。電波の状況も悪かったが、昼食とも言えない昼食をとり、被災地を思いやりながら函館に到着するのを待った。こうしたゆっくりした船の時間は昭和50年以来のことだった。
27次南鯨事業参加以来の船旅。
余りにも静かな穏やかな海、低気圧の接近による風が強かったが、津軽海峡が荒れることは無かった。
函館到着の後、大沼公園(ここで何かのイベントのため渋滞に巻き込まれた)を過ぎ、やがて高速道路に入った。
札幌南インターで高速道無料の関係で担当者とやや議論、しかし、無料で通過。
午後9時過ぎに砂川奈井江インターで道路公団職員とやや口論となった。つまり、被災地の受領書だけでは駄目で、上から、各自治体の無料の更なる書類手続き用紙を必要とするのでそれを用意して欲しいとのこと。
今から、この夜中に疲れ切った状況で取りにいけというのか、こんな夜中に役所が開いている訳が無い、それは無理な要求だ。
いや、後から届けてもらってもいい。
この人は今から、砂川で私をおいて、北見に走る別の書類の要件は無理がある。
いや、お客さんの言われることが最もなのだが、私たちにこうした書類を出すようにとのお達しがあるので仕方が無いのです。
青森の道路公団では、その受領書をコピーして通過させてくれた。
いや、向こうは被災地なので、その別の書類は、提出しなくてもいいことになっています。
しかし、被災地に赴く人間は、道北道、北海道関係なく通過するのだから、その都度、どこの自治体でもいいから別書類を持ってきてくれというのはおかしな話だ。
それこそ、お役所仕事で、その書類を例え持って来たとして誰に提出するのか、被災地の陸前高田市長の名の入った受領書があれば、それで済むはず。
陸前高田の担当者は、それこそ水戸黄門の印籠と同じとまで言っていたよ。
ここで、議論するのは本意ではなかったが、しかし、日本の全体の共有することだけに、こうしたお役所仕事的書類提出には断固反対した方が良いであろうと、私が交渉。
最終的に相手が根負けして、車のナンバー、受領書の内容の記載後、通過した。
担当者も仕事を真面目にこなそうとした訳で、全く悪気はないのは百も承知。何かあれば連絡を寄越しますとのこと。
受領書は、宮末さんが携行することとなった。
そんなんで、自宅に到着が午後10時過ぎ。
宮末さんが軽い食事の後、休憩し、北見に向かった。
翌日は、5日連休最終日、この日かなり疲れてはいたが、被災地から戻ったことを関係者に連絡。
私の左側の喉をちょっと触ってもかなりの激痛が走った。
恐らくテント生活で枕が無かったために、リンパの流れが悪く、またかなりの冷え込みもあり、さらに強風による土埃等の影響の痛みではないかと。
これがこの後、一週間ほど続いた。痛みが取れると共に通常の生活に戻りつつあったが、心は被災地にあった。
被災地に赴くに当たってお世話になった関係者に心からお礼を申し上げたいと存じます。
8日の北海道武専の際、松村先生、福田先生にも会うことが出来るだろうし、その際、互いに思いを交換することができるだろうと思いを馳せた。
そして、今日も被災地の人たち、活動に参加している人たちへの思いを被災地に行く前とは違った感情を持ったのは事実。
是非、一度は被災地へ行くことを心から願う次第です。その場に立つことの意味はそこに立てば答えが自ずと分かるはずです。
合掌再拝 池上
2011年5月11日水曜日
陸前高田 NO3 森拳士のアメリカ報告5月10日
合掌
5月3日
午前6時起床。静岡県裾野市のグループは、急遽、災害協定を締結している相馬市を訪問する関係で、基地を後にすることとなり私たちは支援基地で見送った。
昨夜、裾野市市議会議員と今回の被災に対する支援物資の配布等について私から伝えた。自治体に届けられた物資を配布することが出来ずに溜まる一方であり、支援物資が余っているのではなく、単に配布ができないでいるということ。もし、万が一にも被災自治体が支援物資はたくさんありもう送らなくてもいい等と言う様なことが流布されたらとんでもないことになる、被災地に対しての考え方が変化し協力を得られなくなる懸念があること。支援されるもの、事に関して現段階で決して不用意な発言には十分留意すること、本部の藤井君にも十分注意した。
そうした話し合いの下、裾野市議会議員のご好意、日本一の水を始め多くの支援物資を陸前高田の我が基地を通し陸前高田の被災対策本部に届けることとなり車から支援物資を基地内に運び込みました。
藤井君が受領した。感謝!
仲間が去った後はやはり寂しい、しかしやる気も溢れてくる。
宮末さん、埼玉の拳士2名、埼玉県の拳士の奥様、畑山先生とそのご子息、陸前高田女性2名、そして私の合計9人で、子供たちが通るための歩道を整備した。津波で押し固められた歩道をスコップで土砂を取り除き、箒で綺麗に鏡面の如く約200メートル施工した。
作業中の午後2時過ぎ新井会長一行が現場に到着。
荒井拳士、新潟県連盟の夏川先生、小千谷道院長他2名であった。新潟の米を数俵その他の物資を基地に届けられたとのこと。
夏川先生はもう3回来ているのだと私に話してくれました。
さすが東北の仲間!
小千谷道院長は、私たちの作業を見て、「今日は被災地視察ですが明日から手伝います。」と力強い言葉。
新井会長は、私が北海道から持ってきた支援物資を陸前高田の基地から車に積んできてくれたこと、そしてそれを柏木博文道院長に全部渡していただくよう確認しました。その支援物資には、砂川道院の竹房いぶき拳士と小学校の友達2名の手紙も入っていました。
短時間の会見の後、会長一行は宮城に向かいました。
作業再開!
ここで、歩道を覆っていた屋根の鉄板を、宮末さんの60型ランドクルーザーのウィンチで引っ張り取り除くことができました。
その結果、200メートルの歩道回復を果たすことが出来ました。
作業を終了!実は、歩道の整備の場所は、かの有名な歌手の千昌夫の生家の前で、その家は津波で壊滅していました。
津波の入ってきた海はその歩道からかなり遠くにあります。1キロはあるのではないか!道路と海との間は水田であったようですがその面影は全くありません。
夕方、新潟の小千谷道院3名が基地に到着。ここで画期的なことがありました。
会長が持参された財団旗をどこに張るかでこの基地の責任者畑山さんが悩みました。
私は、「大きい団旗を外に張ったらいい。」と言うと、畑山さんは、「雨に濡れては」と心配。
私は、駄目になったらまた持ってきてもらったらいい、私が責任を取るから大きい旗を外に張ったらいいと主張、400メートル眼下にみえる支援センターからも見える基地集会所の外に張りました。
新潟の大工の二人の拳士の素早い作業であっという間に!
戻ってきた藤井君は、素晴らしい、こうしたかったのです、本当に良かった。
修行を積んだ藤井君の団旗に対する想いが我らと同じで安心したものです。
成長したものだと感心しました。
私が団長で参加した1990年?鄭州での第一回武術祭に藤井君若かりし頃一緒に行ったことを思い出した。これについてはまたいつか思い出として書きたいと思う。
新潟の拳士2名が職業大工!こうした専門職が被災地には必要!やれることの幅が広がります。
愛知県連盟の佐竹令子副理事長一行も合流し、夕食のおかずをつくって頂いた。
女性ならではの、サラダの盛り付け。
夕食開始の際、藤井君は私に挨拶をしてくれといういう依頼。
私は、「千年に一度の被災、総裁は既に被災地に二度も入られています。
同士相親しみ、相援け、とあるように、支援物資を届けること以上に、心を届けるのだということ、今日ここに来られているということは、心を運んできたのです。開祖なら恐らく全員結集を号令したはず、明日も頑張りましょう。」
藤井君は、今私たちのやっていることは間違いないことですよね!と私に同意を求めた発言!間違いない、開祖が生きていたら当然だと言うだろう。
君がいなければここまでみんなもやれないだろう、自信を持っていい。
たいした奴だと伝えた。
総裁を見てご覧、真っ先に来ている。
被災地が安全かどうかを確かめてから来るなどとんでもない。
中には現地に今来ると迷惑だからと言われたからいく必要が無い等と、来る気がないから、被災地に行かない言い訳を考えているようなら少林寺拳法の拳士とは言えない。
千年に一度の被災、安全を確保してからだと、千年後に来るというのか、大変なときだからこそ、こうしてここにいることが少林寺拳法の本物の拳士の行動だ。
被災地に来なければ本当の状況は分からないのだから!
何も見もしないで何も行動を起こしもしないで何が分かるのか!
情けない話だ!
総裁の言うように、何かを探して行動しなければの言葉は現地に行ったから言えることなのではないか!
行動の起こさない人は今からでも遅くは無い、まず行動!活動!前進!進化せよ!
使命感を持って行動!
18時21分 柏木博文先生から私の携帯に電話。
新井会長から私の支援物資を受け取りましたと、お礼の電話がありました。いくらかでもお役に立てればこれに越したことはない!よかった!
午後八時にはテントに移動、早々と就寝。
5月3日
午前6時起床。静岡県裾野市のグループは、急遽、災害協定を締結している相馬市を訪問する関係で、基地を後にすることとなり私たちは支援基地で見送った。
昨夜、裾野市市議会議員と今回の被災に対する支援物資の配布等について私から伝えた。自治体に届けられた物資を配布することが出来ずに溜まる一方であり、支援物資が余っているのではなく、単に配布ができないでいるということ。もし、万が一にも被災自治体が支援物資はたくさんありもう送らなくてもいい等と言う様なことが流布されたらとんでもないことになる、被災地に対しての考え方が変化し協力を得られなくなる懸念があること。支援されるもの、事に関して現段階で決して不用意な発言には十分留意すること、本部の藤井君にも十分注意した。
そうした話し合いの下、裾野市議会議員のご好意、日本一の水を始め多くの支援物資を陸前高田の我が基地を通し陸前高田の被災対策本部に届けることとなり車から支援物資を基地内に運び込みました。
藤井君が受領した。感謝!
仲間が去った後はやはり寂しい、しかしやる気も溢れてくる。
宮末さん、埼玉の拳士2名、埼玉県の拳士の奥様、畑山先生とそのご子息、陸前高田女性2名、そして私の合計9人で、子供たちが通るための歩道を整備した。津波で押し固められた歩道をスコップで土砂を取り除き、箒で綺麗に鏡面の如く約200メートル施工した。
作業中の午後2時過ぎ新井会長一行が現場に到着。
荒井拳士、新潟県連盟の夏川先生、小千谷道院長他2名であった。新潟の米を数俵その他の物資を基地に届けられたとのこと。
夏川先生はもう3回来ているのだと私に話してくれました。
さすが東北の仲間!
小千谷道院長は、私たちの作業を見て、「今日は被災地視察ですが明日から手伝います。」と力強い言葉。
新井会長は、私が北海道から持ってきた支援物資を陸前高田の基地から車に積んできてくれたこと、そしてそれを柏木博文道院長に全部渡していただくよう確認しました。その支援物資には、砂川道院の竹房いぶき拳士と小学校の友達2名の手紙も入っていました。
短時間の会見の後、会長一行は宮城に向かいました。
作業再開!
ここで、歩道を覆っていた屋根の鉄板を、宮末さんの60型ランドクルーザーのウィンチで引っ張り取り除くことができました。
その結果、200メートルの歩道回復を果たすことが出来ました。
作業を終了!実は、歩道の整備の場所は、かの有名な歌手の千昌夫の生家の前で、その家は津波で壊滅していました。
津波の入ってきた海はその歩道からかなり遠くにあります。1キロはあるのではないか!道路と海との間は水田であったようですがその面影は全くありません。
夕方、新潟の小千谷道院3名が基地に到着。ここで画期的なことがありました。
会長が持参された財団旗をどこに張るかでこの基地の責任者畑山さんが悩みました。
私は、「大きい団旗を外に張ったらいい。」と言うと、畑山さんは、「雨に濡れては」と心配。
私は、駄目になったらまた持ってきてもらったらいい、私が責任を取るから大きい旗を外に張ったらいいと主張、400メートル眼下にみえる支援センターからも見える基地集会所の外に張りました。
新潟の大工の二人の拳士の素早い作業であっという間に!
戻ってきた藤井君は、素晴らしい、こうしたかったのです、本当に良かった。
修行を積んだ藤井君の団旗に対する想いが我らと同じで安心したものです。
成長したものだと感心しました。
私が団長で参加した1990年?鄭州での第一回武術祭に藤井君若かりし頃一緒に行ったことを思い出した。これについてはまたいつか思い出として書きたいと思う。
新潟の拳士2名が職業大工!こうした専門職が被災地には必要!やれることの幅が広がります。
愛知県連盟の佐竹令子副理事長一行も合流し、夕食のおかずをつくって頂いた。
女性ならではの、サラダの盛り付け。
夕食開始の際、藤井君は私に挨拶をしてくれといういう依頼。
私は、「千年に一度の被災、総裁は既に被災地に二度も入られています。
同士相親しみ、相援け、とあるように、支援物資を届けること以上に、心を届けるのだということ、今日ここに来られているということは、心を運んできたのです。開祖なら恐らく全員結集を号令したはず、明日も頑張りましょう。」
藤井君は、今私たちのやっていることは間違いないことですよね!と私に同意を求めた発言!間違いない、開祖が生きていたら当然だと言うだろう。
君がいなければここまでみんなもやれないだろう、自信を持っていい。
たいした奴だと伝えた。
総裁を見てご覧、真っ先に来ている。
被災地が安全かどうかを確かめてから来るなどとんでもない。
中には現地に今来ると迷惑だからと言われたからいく必要が無い等と、来る気がないから、被災地に行かない言い訳を考えているようなら少林寺拳法の拳士とは言えない。
千年に一度の被災、安全を確保してからだと、千年後に来るというのか、大変なときだからこそ、こうしてここにいることが少林寺拳法の本物の拳士の行動だ。
被災地に来なければ本当の状況は分からないのだから!
何も見もしないで何も行動を起こしもしないで何が分かるのか!
情けない話だ!
総裁の言うように、何かを探して行動しなければの言葉は現地に行ったから言えることなのではないか!
行動の起こさない人は今からでも遅くは無い、まず行動!活動!前進!進化せよ!
使命感を持って行動!
18時21分 柏木博文先生から私の携帯に電話。
新井会長から私の支援物資を受け取りましたと、お礼の電話がありました。いくらかでもお役に立てればこれに越したことはない!よかった!
午後八時にはテントに移動、早々と就寝。
次のメールは、滝川道院副道院長 森義昌拳士からのメールです。
合掌
ご無沙汰しております。
陸前高田市における救援活動大変お疲れ様でした。
ブログからその大変さがひしひしと伝わってきました。
現地の悲惨な様相は行った者でないとわからないと思います。
公私ともに救援活動に参加できないことがいまだに残念でなりません。
来週、地元の高校で日本の文化についてレクチャーを行います。
津波の被害に遭った人たちがとった秩序正しい行動、冷静さ、我慢強さは日本の長い歴史から培われた
文化に起因しているということをアメリカの高校生に伝えてきます。
私にできることはこれぐらいですが、救援活動のひとつととらえて拙い英語で頑張りたいと思います。
結手
サンアントニオ 5月9日(月)2011年
森
2011年5月8日日曜日
陸前高田の基地から NO2
合掌
5月2日
夕方静岡県裾野市の道院、裾野市市議会議員の力強い応援が到着。
翌日の瓦礫処理の作業に参加することになりました。
一気に人数が増え、基地は活気付きました。
夜食事終了後、その日の反省を含めて当日基地に来た拳士間の交流を思い思いに話していた。
瓦礫の処理の方法において、藤井君が中心となり、短時間においての作業。ダンプが入れるように倒壊した家の前に車が入り効果的に瓦礫を積み込めるようにしたことが大いに作業がはかどることが出来た。
畳を敷いてやるようにという他のグループの威圧的な指導を我々に対して迫った人に対し、私は、畳を過信すると返って危険であることを伝え、それぞれのやり方でそれぞれのペースでやることがいいときちんとその御仁に
きっぱりと伝えた。
畳は海水で濡れて滑りやすく、且つ薄く下に釘を隠すこととなり釘を踏み抜く危険性が高くなることを我が仲間に伝えた。
少林寺グループはダンプ搬入口を確保する方法をとり大成功であった。
藤井君は張り切りすぎたか、兎に角馬力があり、つい釘を踏み抜いたようだ。本人はかすり傷といっていた。
私は靴の下敷きを鋼鉄のものを強いていたのでいくらか安心して作業をすることが出来た。翌日、藤井君はそうした靴敷きを買い求めに行った。
私は船上の経験があったことでそうした靴を履くことを覚えていた。
しかし、どんな靴も過信はよくない、また側面からの釘の攻撃は防御しにくいので気をつけられたし。
そうした、互いの協力を力強く感じながらの反省会であった。
総裁からは、「陸前高田に行かれましたか。被災地はどこも目を疑いたくなるような光景でしょう。何が出来るか見つけ出すしかありません。」
柏木先生とご家族の特にお嬢さんのことをご心配をなされ、
「まだまだ不条理が続くのでしょうか。」と被災地を心配されていました。
夜、テントに移動就寝。
5月2日
夕方静岡県裾野市の道院、裾野市市議会議員の力強い応援が到着。
翌日の瓦礫処理の作業に参加することになりました。
一気に人数が増え、基地は活気付きました。
夜食事終了後、その日の反省を含めて当日基地に来た拳士間の交流を思い思いに話していた。
瓦礫の処理の方法において、藤井君が中心となり、短時間においての作業。ダンプが入れるように倒壊した家の前に車が入り効果的に瓦礫を積み込めるようにしたことが大いに作業がはかどることが出来た。
畳を敷いてやるようにという他のグループの威圧的な指導を我々に対して迫った人に対し、私は、畳を過信すると返って危険であることを伝え、それぞれのやり方でそれぞれのペースでやることがいいときちんとその御仁に
きっぱりと伝えた。
畳は海水で濡れて滑りやすく、且つ薄く下に釘を隠すこととなり釘を踏み抜く危険性が高くなることを我が仲間に伝えた。
少林寺グループはダンプ搬入口を確保する方法をとり大成功であった。
藤井君は張り切りすぎたか、兎に角馬力があり、つい釘を踏み抜いたようだ。本人はかすり傷といっていた。
私は靴の下敷きを鋼鉄のものを強いていたのでいくらか安心して作業をすることが出来た。翌日、藤井君はそうした靴敷きを買い求めに行った。
私は船上の経験があったことでそうした靴を履くことを覚えていた。
しかし、どんな靴も過信はよくない、また側面からの釘の攻撃は防御しにくいので気をつけられたし。
そうした、互いの協力を力強く感じながらの反省会であった。
総裁からは、「陸前高田に行かれましたか。被災地はどこも目を疑いたくなるような光景でしょう。何が出来るか見つけ出すしかありません。」
柏木先生とご家族の特にお嬢さんのことをご心配をなされ、
「まだまだ不条理が続くのでしょうか。」と被災地を心配されていました。
夜、テントに移動就寝。
2011年5月7日土曜日
陸前高田、気仙沼唐桑半島柏木先生を訪問 1回目
合掌
4月30日から5月5日まで被災地へ、みんなの心を届けてきました。
4月30日の土曜日の滝川クラブの稽古終了後、
午後2時砂川を
北見の宮末さんの60系ランドクルーザー前後ウインチ付で午後2時に出発しました。
皆さんの支援物資を積み込み、自分用の食料、水を積み込み発ちました。
午後11時半の青函フェリーで4時間の船旅。
5月1日
午前4時には陸前高田を目指し、八甲田山を横断、八戸を経由し一般道40号線を走りました。
太平洋岸の被災地を最初に目をした時、テレビを通して見る映像とは全く違う光景を目にしたときの驚愕は今まで経験したことのないものでした。
延々と続く瓦礫の何も無いまち並みはただただ驚愕!
美しい三陸の海岸線は見る影も無いありようでした。
なすすべもなく命を落とした無念さをひしひしと感じました。
私はかつて海に仕事をした経験があります。
南氷洋は魔の南緯40度線は常に嵐を伴う津波の如くの荒れた海域です。
海にいるときはそれでも、うねりに船をたててゆっくり嵐が治まるまで進めれば沈むことはありません。
しかし、あれほどの大津波が陸地を襲ったなら人間の手には負えないのです。
時々車から降り、躊躇しながら撮影をしました。撮影は、なんとなく憚れる気がしました。
自分の住まいを解体するのか、寂しげにじっと見つめている姿が印象的でした。
午後1時ごろ、陸前高田の少林寺拳法の支援基地に到着。
北海道から既に来ていた苫小牧の松村先生、釧路の福田先生が支援活動から戻り今から北海道に帰るということで、基地で会うことが出来ました。
「池上先生より早く来なければと思い、早く来ていました。」と松村先生。
彼らは、青森から高速道路を使って来たとのこと。
私たちは、一般道を被災地を全て見ながら来たことを伝えました。
「本当に悲惨で考えられないと、直接見なければ分からない。」と話してくれました。
彼らと基地の前で記念撮影をして別れ、私たちは、宮城気仙沼の柏木先生を訪ねました。
基地から約1時間の距離で唐桑半島の柏木先生のお宅を探しながら漸く見つける事ができました。
自宅は海からかなり離れた小高いところに住まいがありました。
真っ赤な椿の花が一面に咲いた東北の独特の住まいでした。
先生が在宅され、おばあさん、奥様さん、お嬢さんとも皆ご無事の姿を拝見することが出来ました。
先生は私の顔を見てかなり驚かれたようです。まさか、突然自宅にやって来ることなど思いもよらなかったのも当然です。
旭川医科大の看護学部の学生であるお嬢さんがいらしたので最初安心しました。 友人の鵜野さんとのやり取りをブログに書いてありますのでお分かりのことと思います。
お嬢さんは甲斐甲斐しく、お茶やコーヒーを出して下さり、奥様と共に、ラーメンまで作っていただきました。
柏木先生から、津波のときの状況を詳しく話してくれました。海まではかなりの距離があります。遠く海の方向に見える道路を乗り越え自宅近くまで津波が押し寄せたとのこと、想像もつかない脅威でした。
先生の製氷会社が一瞬にして無くなり、先生も仕事を失ったとのことでした。一瞬にして人生が変わってしまったのです。それはお嬢さんにとっても同じことでした。
先生を訪問の際、手ぶらで来たことを謝罪し、基地においてきた支援物資を後日届けることを伝え、辞しました。
「本当にありがとうございました。」との言葉を聞き、来て良かったと宮末先生と同士相親しみ相援けの精神を思い浮かべました。
帰り際、奥さんが、「今年は例年になく、椿がたくさん咲き、そして、首を落としています。亡くなった人の数だけ真っ赤な椿の花が落ちているのでしょう。」
確かに、庭には悲しげに真っ赤に燃えるようなたくさんの椿花が落ちていました。
現地に赴き直接声を聞かなければ分かりません。
自分の安全を確保してから行くなど論外。
被災地の皆さんは必死に立ち直ろうとしています。
皆さんの心を届けることが最も勇気を与えることになるでしょう。
陸前高田に戻り、本部の藤井君と打ち合わせをしました。
「新井会長が、来られるのでその時に、池上先生の支援物資を柏木先生に届けてもらうことにしましょう。」
そうしてもらうことにしました。
5月2日
リンゴ園を営んでいる人家の瓦礫の撤去。瓦礫の浜辺をあっち行ったりこっち行ったりしながら漸く現地到着。作業を開始。
かなりの瓦礫、ひどい状況、強風により危険な作業。
しかし、みな、文句も言わず汗だくだくで作業。
埼玉の林先生が、トラックで来ていたために大いに作業がはかどる。
ますます強風、この日の作業は全て午後から強風のため危険と判断。
活動停止。
埼玉、茨城、北海道、とりわけ本部の藤井君、もと本部職員の後輩、本校武専の学生が参加しての作業。
夕食は、カレー。私たちはテントにて就寝。隣のテントが強風で飛ばされた。
4月30日から5月5日まで被災地へ、みんなの心を届けてきました。
4月30日の土曜日の滝川クラブの稽古終了後、
午後2時砂川を
北見の宮末さんの60系ランドクルーザー前後ウインチ付で午後2時に出発しました。
皆さんの支援物資を積み込み、自分用の食料、水を積み込み発ちました。
午後11時半の青函フェリーで4時間の船旅。
5月1日
午前4時には陸前高田を目指し、八甲田山を横断、八戸を経由し一般道40号線を走りました。
太平洋岸の被災地を最初に目をした時、テレビを通して見る映像とは全く違う光景を目にしたときの驚愕は今まで経験したことのないものでした。
延々と続く瓦礫の何も無いまち並みはただただ驚愕!
美しい三陸の海岸線は見る影も無いありようでした。
なすすべもなく命を落とした無念さをひしひしと感じました。
私はかつて海に仕事をした経験があります。
南氷洋は魔の南緯40度線は常に嵐を伴う津波の如くの荒れた海域です。
海にいるときはそれでも、うねりに船をたててゆっくり嵐が治まるまで進めれば沈むことはありません。
しかし、あれほどの大津波が陸地を襲ったなら人間の手には負えないのです。
時々車から降り、躊躇しながら撮影をしました。撮影は、なんとなく憚れる気がしました。
自分の住まいを解体するのか、寂しげにじっと見つめている姿が印象的でした。
午後1時ごろ、陸前高田の少林寺拳法の支援基地に到着。
北海道から既に来ていた苫小牧の松村先生、釧路の福田先生が支援活動から戻り今から北海道に帰るということで、基地で会うことが出来ました。
「池上先生より早く来なければと思い、早く来ていました。」と松村先生。
彼らは、青森から高速道路を使って来たとのこと。
私たちは、一般道を被災地を全て見ながら来たことを伝えました。
「本当に悲惨で考えられないと、直接見なければ分からない。」と話してくれました。
彼らと基地の前で記念撮影をして別れ、私たちは、宮城気仙沼の柏木先生を訪ねました。
基地から約1時間の距離で唐桑半島の柏木先生のお宅を探しながら漸く見つける事ができました。
自宅は海からかなり離れた小高いところに住まいがありました。
真っ赤な椿の花が一面に咲いた東北の独特の住まいでした。
先生が在宅され、おばあさん、奥様さん、お嬢さんとも皆ご無事の姿を拝見することが出来ました。
先生は私の顔を見てかなり驚かれたようです。まさか、突然自宅にやって来ることなど思いもよらなかったのも当然です。
旭川医科大の看護学部の学生であるお嬢さんがいらしたので最初安心しました。 友人の鵜野さんとのやり取りをブログに書いてありますのでお分かりのことと思います。
お嬢さんは甲斐甲斐しく、お茶やコーヒーを出して下さり、奥様と共に、ラーメンまで作っていただきました。
柏木先生から、津波のときの状況を詳しく話してくれました。海まではかなりの距離があります。遠く海の方向に見える道路を乗り越え自宅近くまで津波が押し寄せたとのこと、想像もつかない脅威でした。
先生の製氷会社が一瞬にして無くなり、先生も仕事を失ったとのことでした。一瞬にして人生が変わってしまったのです。それはお嬢さんにとっても同じことでした。
先生を訪問の際、手ぶらで来たことを謝罪し、基地においてきた支援物資を後日届けることを伝え、辞しました。
「本当にありがとうございました。」との言葉を聞き、来て良かったと宮末先生と同士相親しみ相援けの精神を思い浮かべました。
帰り際、奥さんが、「今年は例年になく、椿がたくさん咲き、そして、首を落としています。亡くなった人の数だけ真っ赤な椿の花が落ちているのでしょう。」
確かに、庭には悲しげに真っ赤に燃えるようなたくさんの椿花が落ちていました。
現地に赴き直接声を聞かなければ分かりません。
自分の安全を確保してから行くなど論外。
被災地の皆さんは必死に立ち直ろうとしています。
皆さんの心を届けることが最も勇気を与えることになるでしょう。
陸前高田に戻り、本部の藤井君と打ち合わせをしました。
「新井会長が、来られるのでその時に、池上先生の支援物資を柏木先生に届けてもらうことにしましょう。」
そうしてもらうことにしました。
5月2日
リンゴ園を営んでいる人家の瓦礫の撤去。瓦礫の浜辺をあっち行ったりこっち行ったりしながら漸く現地到着。作業を開始。
かなりの瓦礫、ひどい状況、強風により危険な作業。
しかし、みな、文句も言わず汗だくだくで作業。
埼玉の林先生が、トラックで来ていたために大いに作業がはかどる。
ますます強風、この日の作業は全て午後から強風のため危険と判断。
活動停止。
埼玉、茨城、北海道、とりわけ本部の藤井君、もと本部職員の後輩、本校武専の学生が参加しての作業。
夕食は、カレー。私たちはテントにて就寝。隣のテントが強風で飛ばされた。
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