2013年1月22日火曜日

2013年1月20日 北海道武專派遣 23日砂川道院稽古

合掌
1月19日札幌パークホテルにおいて北海道少林寺拳法連盟の新年会、それに先立って、北海道教区の新春法会。

新年会は、多くの国会議員の出席を頂いた。衆議院議員選挙に当選した面々の嬉々とした表情に思わず笑み!

千葉会長に宛てられた宗由貴総裁のメールを紹介された。

今年の参議院議員選挙に出られる伊達忠一参議院議員、橋本聖子参議院議員。
元気一杯の長谷川岳衆議とは久し振りに対面。
今津衆議も古くからの少林寺拳法の理解者。砂川の私の事務所の石家酒店が親戚に当たる。

武部新(あらた)衆議、勝沼栄明(しげあき)衆議(比例区当選)。

千葉英守会長が心血を注いだ北見市から転出し、札幌中央区において最も強敵であった横路衆議を相手に戦いを挑み当選した舟橋利実衆議。
私は初対面であったが挨拶を頂いた中で少林寺拳法については知識が殆どないと知り、野坂理事長同席のところで、少林寺拳法について詳細に説明した。
少林寺拳法の開創の背景そして現状を国会議員なりたてのほやほやの若きエースになるかもしれない人材に理解してもらわねばならないと考えたからである。
北海道の顔になるよう人生の先輩として激励した。

野に優秀な人材が数多くある中で、政治の代議をうけた国会議員が少林寺拳法がただ単なる武道団体であると軽く判断されるようなことが断じてあってはならないのである。
国会議員の今後の動向を見守る事になるであろう。

釧路選出の伊東衆議は、市議会議員初当選からの古き友人である。
現在、自民党北海道の代議士会会長である。
帯広市出身の清水氏も衆議に比例区で誕生した。共に古き友人である。

函館の前田衆議は、片桐先生の北斗道院の拳士であり、北斗道院の新年会に出席したと先生からお聞きした。池上先生の北大の後輩だよと知らされた。北大とは知っていたが、拳士であったことは知らなかった。片桐先生もことの外大変喜ばれていた。

1月9日の砂川道院の学科の日のことであるが、山口県西京道院の長田先生から電話を頂き ました。
安倍総理がいらして西京道院の少拳士、絵島拳士に今年の参議院銀選挙に出るように言われたそうである。
参議院議員から衆議に転出して当選した後に公認候補として出るとのことだった。
長田先生の門下生の一人があの有名な高村副総裁であることは言うまでもない。
長田先生は、「道院長の私は大したことはないが、弟子が素晴らしい。」と豪快に笑って電話を終えた。
明治維新を起こした長州つまり山口県は凄いものだといつも思う。
長田先生の「幻の蹴り」今一度見たいものである。


アルジェリアでの人質の日本人が犠牲になった。テロの犠牲は真に腹立たしい限りである。
日本国は抵抗しない国民と世界的に見られているのである。
武士道の民族としての気概を軽く踏みにじられている国際的評価は、ますますこうした事態に対峙できないことを増幅し、日本国の威信はますます地に落ちていくであろう。
闘える我が民族の魂を取り戻す時代に入っているのである。

人間は、宗教の違いによる和を求めることは至難であり、破邪の拳、護身の観点から、民族の気概を高めなくてはならない。
無抵抗のまま闘わずして死ぬことは決してあってはならない。
何も出来ずただ死を受け止めるだけの対応しかできないことに歯がゆさを覚える。
全ての民族が、般若心経の生きかたを持ちえるなら民族間通しの争いはなくなるのであろうが、自我を捨てることのできない人間の性を変えることはできない。

20日は北海道武專、本部派遣教師として担当した。
講義は、釈尊の人生観;精進を詳細に説明した。

般若心経(276文字)に釈尊の教えが凝縮されている。
般若とは知識ではなく智慧を意味する。
智慧をもって人生を修行の場としてとらえ、生きているのではなく、生かされていることを認識し、生きている人生を活き活きと生ききること。

坐という文字の、土の上に人、人。
人間の尊厳 「自身」ではない「自己」を求めることが生涯修行であること。
少林寺拳法の自己確立は釈尊の、自我の底にある自己を求め続け坐ることであるということを説明をした。
自我には個人差があり、自己は個人差がない。

少林寺拳法の外修、内修、易筋行の意義を説明。

開祖は宗教の歴史において在家の禅者としての生きかたを少林寺拳法の開創をもって体現した大禅師であること。
我々拳士は開祖の道を理想境に向けて希求し続ける。

講義の感想文はただ一人を除いて私の講義を十分に理解しくれたことが分かった。
その1名については、指導を要すると判断した。
感想文はいい加減なものであってはならない。

その感想文に「講義が多岐にわたり受け切れなかった。」とあった。

講義を受講すると言う事は修行の一環として参坐するものであり、最低限の知識を身につける場である。
それは聞く側の修行の未熟さから来るものであり、感想に値しない。
自身の未熟さを感想として述べても意味の無いことである。
後段に紹介する感想文から伺えるように、講義の内容の柱は数本であり武專学生なら理解できるもののはずである。

道場本来の意味は、「釈尊が悟りを得た場」のことを言う。

それだけに我々指導者は、参坐する道場において、講義、技術指導において真剣に修行していることを決して忘れてはならない。

講義を受講する場合、自分に欠けるものがあれば、真剣に聴き入り、少しでも理解を深める努力をしなければならない。
それが出来なければ、いくら指導者然と振舞っても、誰も真剣についてくる者はいない。

後ろを振り向いたらだれもいなかったと己の不甲斐なさを実感するであろう。
またそうした者は誰からも相手にされることがなくなる。
つまり、見抜かれるということである。見抜かれることにさえ気付かずに人生を送ることとなる。
ゆめゆめ忘ることなかれ。

「講義を理解した感想文」を次に紹介する。
よく講義の内容に触れ、教養を高める受信機を持ちえていることに、将来を期待するものである。

予科1年
知識をもっているだけでは駄目で、知恵をもって行こうということ。
開祖は一人の仏教の開拓者であるという意識をもって修行していこうということを学んだ。

研究科2年
知識だけではだめであり知恵が必要であること。
「般若」とは知恵という意味であり、釈尊の教えの全てが含まれているものが「般若心経」であること、坐禅を組んでいる姿は仏の姿であり、自分自身の「自己」を見つけるためのものであること等について講義をしていただきました。

研究科3年
金剛禅は宗教であることを自覚し、釈尊の教えを宗教全般の知識を深め、技も内面も人に魅せられるよう手本になるよう磨かねばならない。
大きな視野をもって物事を判断し、修行者・指導者として使命を果たさねばならないと理解した。

研究科3年
金剛禅における生涯修行の形態
相手の中に尊厳があることを認識しそれを引き出すように、布に水がしみ込むようにじわじわとしみこむように。

研究科3年
「智慧」「技」「知識」を深めること。
今現在の自分が全てにおいて浅いところにいるという認識は常に持つよう心掛けているつもりですが、初心を忘れず精進します。 

研究科4年
「金剛禅における生涯修行の形態」
般若心経のすすめ~釈尊の教えを深く理解するため、武專講師は知識だけではだめ。
知恵が必要。
外修内修をもっと深く理解しようと思いました。

研究科4年
大変具体的でわかりやすいお話でした。
深く研究し実践を進められてきた方にしか持ちえない自信と熱意が伝わってきました。
もうすぐ武專も終了ですが、今後も頑張っていきたいとう思います。 



終了検定については、私は武專指導中であり、検定できなかったが全般の判断において終了的確であるかどうか判断したかった。
指導者の資質については慎重に行わなければ、開祖の志を伝える事が出来ないのである。
甘えが増幅し、かん違いの指導者を作り上げたのでは、開祖に申し訳がない。


技術
基本において、戦わなくとも戦える少林寺拳法 を護身術として凄いものであること、素晴らしいものであることを再認識してもらうように指導した。
乱捕りを行ったのであるが、乱捕りの稽古の不足が否めない。
そこで柔法から剛法へと一体となる、当身の有用性を指導した。
護身の速度を再認識してもらいながら、乱捕りへ繋がることを示した。
次の機会に少林寺拳法の防具を装着しての稽古乱捕りを行ってみたい。
柔法においても防具を着用して、当身の体感をさせてみたいものである。

各科の指導においても疑問点を解決しながら指導した。

 
当身 突抜

 
当身 突抜



 
軽い乱捕り



 
袖巻 諸手十字小手

砂川道院 打上突







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