合掌
このブログの主たる製作は、現在旭川南高校教員の松林拳士に負うところが多い。
同校の高(たか)拳士(教員で本部研修受講済み)の二人が同好会の生徒を伴い23日の休日の日にやって来た。
当初、この日は砂川道院休日休みの予定であったが、松林拳士からの砂川道院での出稽古の希望があり、急遽受け入れる旨即答した。
18時半から開始した稽古。
少林寺拳法初心者に対する護身の極意とも言うべきものを体験させることができれば幸い。両教員が三段受験の際、二人で砂川道院に出稽古にやって来たその時の体験を生徒に体感させたい希望であることは明白であった。
初心者の指導においては、身近な先生の技を見るだけでなく、他の指導者とその門下生の技術をも含め、実際にその技術を直接かけられることで一気に物事は進むものである。
さらに、興味を増加させることになる。
私にもその経験があり、そうした積み重ねから今があると言える。
砂川道院、滝川道院の拳士の全国大会出場者或いは北海道大会最優秀の演武を披露したこともいい影響を与えたものと信じるものです。
当日演武した、小林拳士、鈴木拳士、三浦拳士等の演武は影響を与えたものと思う。
当日参加した旭川の拳士に感想を聞くことで、いい結果の感想であれば我が道院にとっても非常にありがたい事です。
今後、柔道でオリンピックで金メダルを多く輩出している柔道の名門旭川南高校を訪問し、少林寺拳法の指導ができれば嬉しい限りです。
倉本先生の思い出
「昨日悲別で」の撮影。
砂川駅裏のモーテルの前で冬の夜、ロケを敢行したときのことである。
俳優大滝秀治さん、女優五月みどりさんが二人で歩くシーンを撮影したのであるが、倉本先生が現場に立会い、寒い中、時間をかけて撮影したのである。
そのモーテル入り口の真ん前での撮影時間は真夜中過ぎ迄続いた。
先生はヘビースモーカーで、しゃがみ込みながら、ふかしていたのを記憶している。
しかも寒い雪のなかである。多くのスタッフも勿論寒さを忘れての撮影であった。
夕方から真夜中過ぎ迄かかったことで、モーテル利用者が出るに出られない状況であったことは言うまでもない。
ずっと付き合った私も寒かった記憶が残っている。
今思うと、私は34歳のときのことである。若かった!
埼玉武専
久しぶりの埼玉武専で、深谷市を訪れた。
10月2日、日曜日深谷市総合体育館での開催である。
深谷市にある埼玉工業大学は、私の甥が卒業した大学であることを知った。
住んでいたマンションの一階の、深谷ねぎを焼いて食べさせる居酒屋でアルバイトをしていたとのことである。ねぎ何とかという店のようだ。
多店舗化してうまくいっているとのこと。
本人は現在、京セラの名古屋支店に勤務している。
彼の親、つまり私の弟の三回忌は今年である。
神奈川県警勤務58歳で他界してしまった。
絶対事実である「思う我は死ぬ」の通り、先に逝って早くも3回忌である。
湧出の甥は、今の所元気であることが何よりと言いたいが、喫煙が心配である。
さて、先月北海道の武専に指導に来られた、菊地先生が埼玉グランドホテル深谷に、午前8時40分の約束の時間に若い門下生を伴って来られた。
深谷総合体育館は、ビッグタートルという名の通り、丸い甲羅の亀をイメージした非常にすばらしいデザインの建物である。
そばに古墳があるからではないかと、大野木理事長に尋ねたところ、古墳はなく、そうではないとのことであった。
朝、大野木先生、倉田健治先生、矢島隆禅先生、赤崎義昭先生、小宮山宣司先生の皆さんにご挨拶申し上げた。
いわゆる埼玉を代表するそうそうたる先生方である。
被災地でお会いした、大活躍の林先生は朝はまだおみえではなかった。
埼玉の林先生には頭の下がる思いである。
ダンプを持ってきて瓦礫処理の先頭に立たれていたのである。
ダンプのような実物がなければ、頭の思いだけでは何にもならないのである。
被災地から遠くにいるだけでは何にもならぬのである。
この被災を眼前にして、開祖宗道臣先生ならどうされるだろうか!
もちろん、先頭に立たれていることであろう。
開祖の思いは、今被災地の真っ只中にあると言えるのではないか!
宗由貴総裁が先頭に立って被災地に行かれていることを思えば、拳士ひとりひとりが一度ならずとも被災地において、自分確立・自身確立から
真の自己確立を果たすべきではなかろうか。
それぞれの事情はあろうが、一度は実物に触れることが少林寺拳法の拳士として大事ではなかろうか。
千年に一度のことである。
今行かなければ千年後に行ける由もなし。
思いと行動は全く別である。
午前中の講義 金剛禅の「調和の思想」 その五 組手主体
参禅とは、坐禅に参った。自己が自己を自己する。
坐禅する自己が本尊であり、真の仏教は偶像崇拝ではないことを理解するべきである。
坐禅中、決して邪魔をすることなく、坐れる環境をつくるべきである。
坐禅は自己確立にあって、とてもとても大事なものなのである。
坐禅が一旦始まったならば、ゆめゆめ じゃまはなさらぬよう!
じゃまにならぬようただ坐禅に参った自己を本尊として見つめればよいのである。
絶対事実 我思うゆえに我あり。
思う我は死ぬ
湧出事実において、金や名誉やいわゆる名利に関わらぬ、
如何に真に豊かな人生をおくるか。
そうした人生において、単なる自分・自身ではない、真の自己を通しての組手主体を理解することこそ、少林寺拳法の修行である。
単なる練習ではなく稽古であることの意義を理解すべきものである。
自他共楽の精神を土壌とした組手主体を、普段の稽古を通して、できるならば乱捕りを恐れず嫌わず、日々の稽古に取り入れようではないか!
埼玉武専については更に次回に続く。文章の間違いニュアンスの違いがあれば後で訂正します。
まずは、埼玉武専においてお世話になったことを先にお礼申し上げます。
ブログを見て頂いている埼玉県連の皆さん本当にお世話になりました。
4日火曜日から羆に対する警護のために山に入ります。
羆には遭遇したくないものですが。
参禅・稽古には影響ないものと思います。
合掌再拝 池上治男
2011年10月3日月曜日
2011年9月26日月曜日
森拳士からの近況報告
合掌
アメリカに派遣中の滝川道院森副道院長からのメールを紹介します。
森拳士留守中に、留萌の1981年生まれ、自衛官小山雅明拳士が初めて滝川クラブの稽古に参加しました。
新潟の道院に所属だった。
彼は10年程少林寺拳法の世界から離れていたのですが、今回正式に滝川道院に転籍復帰しました。
24日土曜日の朝稽古の様子!
鎮魂行の後、基本稽古の際も、力を抜くことなく、意識を体の芯に置くことで突き蹴りにも汗だくだくの様相であったことが参加した他の拳士は感じたことでしょう。
おそらく暫くぶりの鎮魂行も、その唱和の発声も自衛官らしい大きな声で!
これはこれは、技術的修正を加えるとかなり技術水準が格段伸びるのではないか。
森拳士にとっては、将来見込みのある拳士が一員となったことで帰国の楽しみがひとつ出来ました。
同じ滝川の自衛官酒井拳士にとっても良きことであったと言えます。
酒井拳士うかうかしてられなくなりました。
ひとりの一生懸命が雰囲気をガラッと変える力を有しています。
それだけに指導する私にとってもやり甲斐があります。
さて、森拳士の近況報告メール開示します。
アメリカに派遣中の滝川道院森副道院長からのメールを紹介します。
森拳士留守中に、留萌の1981年生まれ、自衛官小山雅明拳士が初めて滝川クラブの稽古に参加しました。
新潟の道院に所属だった。
彼は10年程少林寺拳法の世界から離れていたのですが、今回正式に滝川道院に転籍復帰しました。
24日土曜日の朝稽古の様子!
鎮魂行の後、基本稽古の際も、力を抜くことなく、意識を体の芯に置くことで突き蹴りにも汗だくだくの様相であったことが参加した他の拳士は感じたことでしょう。
おそらく暫くぶりの鎮魂行も、その唱和の発声も自衛官らしい大きな声で!
これはこれは、技術的修正を加えるとかなり技術水準が格段伸びるのではないか。
森拳士にとっては、将来見込みのある拳士が一員となったことで帰国の楽しみがひとつ出来ました。
同じ滝川の自衛官酒井拳士にとっても良きことであったと言えます。
酒井拳士うかうかしてられなくなりました。
ひとりの一生懸命が雰囲気をガラッと変える力を有しています。
それだけに指導する私にとってもやり甲斐があります。
さて、森拳士の近況報告メール開示します。
合掌
米軍に混じっての教育がはじまり6週間ほどたちました。
言葉の弊害もさることながら、論理的に物事を考えることに慣れていないため
大変苦労しています。論理よりも「感情」や「印象」が優先する日本において必要な
教育は「リーダーの育成」、すなわち物事を論理的に考えて、自分の意見をしっかり
もち、発言できる人材の育成が今の日本に大事なのではないかと痛感しております。
自分の意見が言えないのではなく、意見をもっていない。意見をもっていないから
発言できない。英語能力以前の問題。
なんとかがんばっていきたいと思います。
昨日、イラク、アフガニスタンで実戦経験を有している同じクラスの米兵に
少林寺拳法を指導する機会を得ました。
時間があまりなかったので簡単な剛法のみを教えましたが、柔軟性にやや欠けるため
センスはあまりいいほうではありませんでした。
やはりブラックベルトをもっているということで一目おかれています。
アメリカ軍人にとってブラックベルトは我々拳士が思っている以上に大変重みがある様です。
日本にいるとあまり感じませんでしたが、有段者としての自覚をしっかり持つべきだと
いまさらながら思いました。
今後機会があれば柔法を教えていきたいと思います。みな筋骨隆々なのでいい稽古になりそうです。
スガワラさんという男性の方から少林寺拳法を習いたいという電話が滝川の家にかかってきました。
今週の土曜日見学にいくと思いますのでよろしくお願いします。
ブログをいつも楽しみにしております。海外在住者にとって最高の法話学習資料です。
結手 森
このメールにあった、菅原君が土曜日の朝見学に来ていました。
私と、本人の希望を聞いて稽古前に少し話しました。
来週の土曜日にでも、弟さんと一緒に再度来ると言い残して鎮魂行、基本稽古を見学して行きました。
11時まで指導した後、新千歳空港に向かいました。
特別昇格試験等について、また、25日の帰りの高松空港で宗由貴総裁とお会いしました。そのことは次回にしましょう。
2011年9月21日水曜日
絶対事実の三つとは?坐禅とは?9月武専 倉本先生の思い出の3 続・子鹿物語 転籍拳士 自己確立
合掌
秋の空は、筋雲も美しい冷涼たる空気に満ちている。
北海道の最も刺激的な季節の変化が齎す美しさは例えようもない。
浦臼連山のピンネシリ、それに北西に背景として暑寒別の山並みが
くっきりと映える季節がやって来ました。
早朝の気温は10度を下回るあっという間の季節の変化。
9月の武専は、埼玉熊谷の菊地先生が本部派遣教師として見えられた。
3年ほど前に初めて北海道武専に派遣されたとのことをお聞きした。
どうも、私はその時の記憶がなかったので私も行事が重なったのではないかと思われる。
10月は私の武専の派遣先は埼玉である。
互恵関係の派遣か!
埼玉武専は私も以前一度行かせていただいたのだが、少林寺拳法の先進の地といっても過言ではない。
幸手の小坂先生も今や幽明境を異にしている。
若くしてと言いたいが、彼は彼の自己を全うしたのであり、よき人生であったのは言うまでもない。私の弟のような存在であった。
菊地先生は、技術確認の際、どうもその指導にあたる担当者の技術に難癖をつけるようで気がひけると言われた。
北海道の拳士にとっては、道院長、幹部拳士に関わらず謙虚に技術を確認したいのであり、決して批判を受ける感覚はないのでご心配の向きは気になされなくても良いのだが。
修行とはそうしたものなので、技術確認等の際、決して指導者だからといって勘違いをゆめゆめなされるな。
私は、武専研究院を担当した。
袖口捕、送閂小手、上膊捕の掛手の理論を断じた。
同じ理論手法が成されなければ無意味であることを、体感させるように指導した。
どうも、まだまだ、研究の域を脱する心識の修行が不足かなと思われる。
まだまだ始まったばかりなので仕様がないのだが。
この中から早く全国を巡回できる技量、心力を身につけてもらいたいものだ。
ただ、今の研究院の学生は誰一人として弱音を吐くような輩は一人もいないことが頼もしい限りである。
武専研究院に菊池先生が来られたとき、お任せし、しばし、予科の方に顔を出してみた。一人の拳士が送小手を掛けて欲しいとの希望あり。
指導したのだが、やはり予科の拳士にとっては難しいもののようである。
しかし、将来が楽しみである。旭川北の拳士であったか!いつものやり方とは違うという感覚を得てくれたなら嬉しいのだが。
倉本先生の思い出。
昔のことはなかなか思い出すのがだんだん難しい。
最近、「北の国から」が、何十年ぶりでBSで再放送されているのをみて、思い出の振り返りを試みているのだが。
25日のクリスマスの夜、砂川の道場で、「昨日、悲し別で」のドラマ作りのための取材のような話であった。
砂川を中心に滝川。そして上砂川、歌志内、赤平、芦別の広域を悲別のひとつのまちとしてドラマが展開する。
北の国からのドラマの合間に炭鉱町を舞台にしたドラマであることは明白だった。
私もロケハンのお手伝いをすることとなった。日本テレビのロケハン担当者と打ち合わせをして、希望の地を紹介し案内したもので、そのドラマの撮影が始まってから、現場に直接行って撮影を目の当たりにした。
晴見の道場の前にも、ドラマの主役三人、天宮良、梨本謙二郎、布施博の三人が集まった。三人ともこの作品がデビューの作品であったようだ。
長男の航洋はまだ小さいときで天宮君に抱っこされた写真が残っている。
砂川市内のロケが一番多かったようだ。
砂川駅、砂川駅前の喫茶店、砂川駅のモーテルの前、東晴見の農村勤労センター前、吉野の橋の上。それぞれの場所で、大滝秀治、五月みどり、斉藤恵子それから、、、名前が思い出せない。西田敏行の釣り馬鹿の最初の奥さん役の女優。そのうち思い出すだろう。
ドラマの撮影時の思い出は次の機会に。
さて、3日前、歩行禅の途中、雌鹿親子発見しました。同じ場所で食餌をしているのを確認しました。子鹿物語は続いています。
そして、雌鹿3頭を昨日発見しました。これは、墓地のそばのそば畑と林の端のところでの発見。先日交通事故にあったのはこの家族の一員であることは場所の関係からして間違いないようです。
ビデオ撮影をしてあります。機会があればお見せしましょう。
パンケ歌志内川で、一昨日カワアイサの雌6羽発見しました。
そして今朝5時半頃、いつも出くわすキタキツネの映像も撮りました。
自宅周辺は、いわゆる野生の宝庫のようです。
先週の土曜日の滝川クラブの稽古の際、留萌の自衛官が転籍したいとのことで訪ねて来ました。
10年ぶりの復帰とのことです。
この日の内に本部と連絡を取り、転籍手続きを済ませました。
1982年生まれの小山拳士、少拳士弐段、新潟出身とのことです。
挨拶では、みなの前で開祖の話をした本格的な拳士ではないかと楽しみであります。
留萌から通うとのことで、早速拳法着、二重胴を購入するとのことを嬉しそうに電話で話していました。
将来、こうした拳士の活躍で留萌にも道場ができれば良いのですが。
少林寺拳法を継続していくのはひとりひとりの心識のことであり、それが強いか弱いかは個々人のことである。
よく仕事が忙しい、何かがあってどうも等というのは、単に自分に対する言い訳であり、真に忙殺されるが如くの他者に対しては全くもって恥ずかしいことであろう。
開祖の思いを今に生かそうとして、修行再開する拳士にとって、自己の存在を確認できる時間をつくることになる。
「自分と自己」は全く異なる。
自己を単に自分のことであるという認識は変えてもらわなければならない。
自己確立の道は今をどう生きるかによって全く異なるのである。
人生はひとりひとりのものであり、後悔しない人生を送ることで、自身・身体を取り巻く環境に自己の心識をつくりだすことになるであろう。
ひとは生まれて生きて死んでゆくだけである。
しかし、今の世の中生まれて、苦しんで、死んでゆくことの多いことよ。
経済的要求の成功を願う人生では、「真の豊かな人生」を全うすることはかなうまい。
釈迦の仏法
絶対事実
絶対事実の1 我思う故に我あり。
絶対事実の2 思う我は死ぬ。
絶対事実の3 湧出事実
生きていく中で湧出するものを解き放つのが修行であり、仏法そのものである。
自己の意味は、ただ単に自分のこと、自分の身体のことではない。
自己が自己を自己するのが禅の本質である。
参禅するとは、坐禅に参ったをすることである。
坐禅をして悟る等という誤った参禅は全くもって意味もない。
ただ、坐禅をするのみであり、本尊はその坐禅の姿そのもの、そのまま。
偶像崇拝は、釈迦の説かれた仏教ではないことを銘記されたい。
合掌再拝 池上治男
稽古情報
23日金曜日は祭日ですが、旭川南から生徒を連れて出稽古に
来ると電話がありました。
やりましょう!
19時ではなくて、18時半より稽古開始します。
稽古に来れる拳士はふるってどうぞ!
自主的稽古は可能。
24日土曜日は道院長は稽古09:30~11;00
道院長が本部に出張のため、少し早めに新千歳空港に向かいます。
25日日曜日 四国多度津の本部にて特別昇格試験の考試員を担当
秋の空は、筋雲も美しい冷涼たる空気に満ちている。
北海道の最も刺激的な季節の変化が齎す美しさは例えようもない。
浦臼連山のピンネシリ、それに北西に背景として暑寒別の山並みが
くっきりと映える季節がやって来ました。
早朝の気温は10度を下回るあっという間の季節の変化。
9月の武専は、埼玉熊谷の菊地先生が本部派遣教師として見えられた。
3年ほど前に初めて北海道武専に派遣されたとのことをお聞きした。
どうも、私はその時の記憶がなかったので私も行事が重なったのではないかと思われる。
10月は私の武専の派遣先は埼玉である。
互恵関係の派遣か!
埼玉武専は私も以前一度行かせていただいたのだが、少林寺拳法の先進の地といっても過言ではない。
幸手の小坂先生も今や幽明境を異にしている。
若くしてと言いたいが、彼は彼の自己を全うしたのであり、よき人生であったのは言うまでもない。私の弟のような存在であった。
菊地先生は、技術確認の際、どうもその指導にあたる担当者の技術に難癖をつけるようで気がひけると言われた。
北海道の拳士にとっては、道院長、幹部拳士に関わらず謙虚に技術を確認したいのであり、決して批判を受ける感覚はないのでご心配の向きは気になされなくても良いのだが。
修行とはそうしたものなので、技術確認等の際、決して指導者だからといって勘違いをゆめゆめなされるな。
私は、武専研究院を担当した。
袖口捕、送閂小手、上膊捕の掛手の理論を断じた。
同じ理論手法が成されなければ無意味であることを、体感させるように指導した。
どうも、まだまだ、研究の域を脱する心識の修行が不足かなと思われる。
まだまだ始まったばかりなので仕様がないのだが。
この中から早く全国を巡回できる技量、心力を身につけてもらいたいものだ。
ただ、今の研究院の学生は誰一人として弱音を吐くような輩は一人もいないことが頼もしい限りである。
武専研究院に菊池先生が来られたとき、お任せし、しばし、予科の方に顔を出してみた。一人の拳士が送小手を掛けて欲しいとの希望あり。
指導したのだが、やはり予科の拳士にとっては難しいもののようである。
しかし、将来が楽しみである。旭川北の拳士であったか!いつものやり方とは違うという感覚を得てくれたなら嬉しいのだが。
倉本先生の思い出。
昔のことはなかなか思い出すのがだんだん難しい。
最近、「北の国から」が、何十年ぶりでBSで再放送されているのをみて、思い出の振り返りを試みているのだが。
25日のクリスマスの夜、砂川の道場で、「昨日、悲し別で」のドラマ作りのための取材のような話であった。
砂川を中心に滝川。そして上砂川、歌志内、赤平、芦別の広域を悲別のひとつのまちとしてドラマが展開する。
北の国からのドラマの合間に炭鉱町を舞台にしたドラマであることは明白だった。
私もロケハンのお手伝いをすることとなった。日本テレビのロケハン担当者と打ち合わせをして、希望の地を紹介し案内したもので、そのドラマの撮影が始まってから、現場に直接行って撮影を目の当たりにした。
晴見の道場の前にも、ドラマの主役三人、天宮良、梨本謙二郎、布施博の三人が集まった。三人ともこの作品がデビューの作品であったようだ。
長男の航洋はまだ小さいときで天宮君に抱っこされた写真が残っている。
砂川市内のロケが一番多かったようだ。
砂川駅、砂川駅前の喫茶店、砂川駅のモーテルの前、東晴見の農村勤労センター前、吉野の橋の上。それぞれの場所で、大滝秀治、五月みどり、斉藤恵子それから、、、名前が思い出せない。西田敏行の釣り馬鹿の最初の奥さん役の女優。そのうち思い出すだろう。
ドラマの撮影時の思い出は次の機会に。
さて、3日前、歩行禅の途中、雌鹿親子発見しました。同じ場所で食餌をしているのを確認しました。子鹿物語は続いています。
そして、雌鹿3頭を昨日発見しました。これは、墓地のそばのそば畑と林の端のところでの発見。先日交通事故にあったのはこの家族の一員であることは場所の関係からして間違いないようです。
ビデオ撮影をしてあります。機会があればお見せしましょう。
パンケ歌志内川で、一昨日カワアイサの雌6羽発見しました。
そして今朝5時半頃、いつも出くわすキタキツネの映像も撮りました。
自宅周辺は、いわゆる野生の宝庫のようです。
先週の土曜日の滝川クラブの稽古の際、留萌の自衛官が転籍したいとのことで訪ねて来ました。
10年ぶりの復帰とのことです。
この日の内に本部と連絡を取り、転籍手続きを済ませました。
1982年生まれの小山拳士、少拳士弐段、新潟出身とのことです。
挨拶では、みなの前で開祖の話をした本格的な拳士ではないかと楽しみであります。
留萌から通うとのことで、早速拳法着、二重胴を購入するとのことを嬉しそうに電話で話していました。
将来、こうした拳士の活躍で留萌にも道場ができれば良いのですが。
少林寺拳法を継続していくのはひとりひとりの心識のことであり、それが強いか弱いかは個々人のことである。
よく仕事が忙しい、何かがあってどうも等というのは、単に自分に対する言い訳であり、真に忙殺されるが如くの他者に対しては全くもって恥ずかしいことであろう。
開祖の思いを今に生かそうとして、修行再開する拳士にとって、自己の存在を確認できる時間をつくることになる。
「自分と自己」は全く異なる。
自己を単に自分のことであるという認識は変えてもらわなければならない。
自己確立の道は今をどう生きるかによって全く異なるのである。
人生はひとりひとりのものであり、後悔しない人生を送ることで、自身・身体を取り巻く環境に自己の心識をつくりだすことになるであろう。
ひとは生まれて生きて死んでゆくだけである。
しかし、今の世の中生まれて、苦しんで、死んでゆくことの多いことよ。
経済的要求の成功を願う人生では、「真の豊かな人生」を全うすることはかなうまい。
釈迦の仏法
絶対事実
絶対事実の1 我思う故に我あり。
絶対事実の2 思う我は死ぬ。
絶対事実の3 湧出事実
生きていく中で湧出するものを解き放つのが修行であり、仏法そのものである。
自己の意味は、ただ単に自分のこと、自分の身体のことではない。
自己が自己を自己するのが禅の本質である。
参禅するとは、坐禅に参ったをすることである。
坐禅をして悟る等という誤った参禅は全くもって意味もない。
ただ、坐禅をするのみであり、本尊はその坐禅の姿そのもの、そのまま。
偶像崇拝は、釈迦の説かれた仏教ではないことを銘記されたい。
合掌再拝 池上治男
稽古情報
23日金曜日は祭日ですが、旭川南から生徒を連れて出稽古に
来ると電話がありました。
やりましょう!
19時ではなくて、18時半より稽古開始します。
稽古に来れる拳士はふるってどうぞ!
自主的稽古は可能。
24日土曜日は道院長は稽古09:30~11;00
道院長が本部に出張のため、少し早めに新千歳空港に向かいます。
25日日曜日 四国多度津の本部にて特別昇格試験の考試員を担当
2011年9月12日月曜日
子鹿物語 凛々しかった柴犬 紅天海
合掌
北海道の秋もさらに深まり、今日12日十五夜の朝はかなり冷え込んだ。
朝の歩行禅も長袖を身に纏わなければならないほどの寒さだった。
早朝5時半のことなのでなお更である。
さて、朝の散歩であるが、9月ともなると近くで生まれた鹿の姿も
山の中に移動したとみえて、あまり目にしなくなって来ていたのだが
9日の朝のことである。
家を出てから歌志内方面に向かい、パンケ歌志内川の橋を越え、
戻ろうとしたときに、2~30メートルくらい先の道路上に嫌な予感が
横たわっていた。
近づいたところ、予想的中、雌鹿の親子が車に撥ねられて息絶えていた。
恐らく大型トラックに一緒に撥ねらたものと思われる。
母鹿の方が内臓を破裂させた状態であり、子鹿の方は衝撃で
死んでいるのが出血していないことから判断できた。
母鹿の状態からして車に引きずられた生々しい痕跡が道路上に
見受けられた。
この親子はいつも春先から私が観察していた親子であるのに
違いなかった。
早朝、パンケ歌志内川に親子で連れ立って水を飲みに行こうとしたか
行ったか、その際に大型トラックに撥ねられたものであろう。
乗用車であれば、車がかなり損傷し車の破片が落ちている
はずなのだが、それは見受けられなかった。
砂川市役所に警備担当しかいない早朝であるのを知っていたが、
カラスが彼女らに付かないうちに処理したほうがよいであろうと思い
自宅に急いで戻り電話した。
鹿の状態によって対応の仕方が異なる。
まだ息があり生きているときは、市役所が対応するが、
既に死んでいる場合は、道路公団の所轄になる。
いずれにしても道路交通上危険な状態にあり、
また、砂川市内においては現在鹿の有害駆除の対象になっている
ときだけにその処理は微妙なのである。
一応、砂川猟友会の事務局をしている喫茶店インパラの藤井さんにも
電話連絡(留守電)した。
役所からのこうした依頼は即猟友会の事務局にくることが
通例であるからである。
鹿のこうした車両衝突による悲劇が年々多くなって来ている。
それだけ、道東の鹿が空知管内にも劇的に移動、増加しているのを
物語っている。
人の住む安全な近所の林で生まれたひとつの小鹿物語は悲劇の
うちに終わった。
この鹿の家族と仲のよかったもうひと家族がまだいるのを知っている。
野生動物がひとと共生ができない出来事なのか、
単なるひとに責任ある交通事故なのか、あるいは悪質な速度違反を
伴う悪質な事故なのかはわからない。
その命を奪った車両は警察にも届けることなく立ち去ってしまった
ことは事実である。
昨年の春、隣接する渡辺さんの水田の畦道を、バンビが二頭
追いかけっこをしたりしながら、元気に走り回っているのを
わたしは何度も見た。
そのひとつの雌鹿の親子であることは間違いない。
この道路は、私の愛犬だった、札幌北都道院の成田實先生に
いただいた柴犬 紅天海が、今外国で仕事をしている長男航洋と
散歩中に車に巻き込まれて犠牲になった道路である。
150メートルと離れていない場所なのである。
その車も天海を撥ねたまま走り去った。
息子から連絡をもらい、道路に横たわっていた天海を
抱きかかえたそのときのことを今でも鮮明に覚えている。
即死だった。
泣いていた息子の姿も痛々しかった。
航洋も帰国するたびにその現場に行っているようである。
私は毎朝その場所を歩行禅の場所としているのである。
人間を撥ねたなら、それこそただ事では済まないのだが!
長男はもちろん、家族皆から愛されていた天海を失ったショックが
しばらく続いた。
成田先生には、後日報告したのだが、何とも残念なことであった。
誠に申し訳なく思ったものである。
長男の部屋には、紅天海の凛々しい姿の写真が飾られている。
長女詩帆の二番目の1歳半の娘、私には3歳の孫、聖夏(せな)の
妹、安海(あんみ)が天海の名前、海を使っていることを
今これを書いていて気がついた。
哀れ雌の親子の鹿。
そしてこの死を通して思い出された紅天海。
同じ道路で逝った愛すべき動物たち、この死を通して私たちに残した
こととは何なのか?
さて、、、武専、倉本聰先生の思い出は次回に書き込みます。
松林拳士が砂川に稽古に行きますと武専会場で言っていた。
北海道少林寺拳法連盟のホームページが改定されたとのこと。
どのようになったか後で見てみたい。
合掌再拝 池上治男
9月13日以後の稽古は予定通りです。
すべて日程において指導参坐します。
9月24日の滝川の稽古後、本部に向かいます。
9月25日の本部特別昇格試験の考試員を務めます。
北海道の秋もさらに深まり、今日12日十五夜の朝はかなり冷え込んだ。
朝の歩行禅も長袖を身に纏わなければならないほどの寒さだった。
早朝5時半のことなのでなお更である。
さて、朝の散歩であるが、9月ともなると近くで生まれた鹿の姿も
山の中に移動したとみえて、あまり目にしなくなって来ていたのだが
9日の朝のことである。
家を出てから歌志内方面に向かい、パンケ歌志内川の橋を越え、
戻ろうとしたときに、2~30メートルくらい先の道路上に嫌な予感が
横たわっていた。
近づいたところ、予想的中、雌鹿の親子が車に撥ねられて息絶えていた。
恐らく大型トラックに一緒に撥ねらたものと思われる。
母鹿の方が内臓を破裂させた状態であり、子鹿の方は衝撃で
死んでいるのが出血していないことから判断できた。
母鹿の状態からして車に引きずられた生々しい痕跡が道路上に
見受けられた。
この親子はいつも春先から私が観察していた親子であるのに
違いなかった。
早朝、パンケ歌志内川に親子で連れ立って水を飲みに行こうとしたか
行ったか、その際に大型トラックに撥ねられたものであろう。
乗用車であれば、車がかなり損傷し車の破片が落ちている
はずなのだが、それは見受けられなかった。
砂川市役所に警備担当しかいない早朝であるのを知っていたが、
カラスが彼女らに付かないうちに処理したほうがよいであろうと思い
自宅に急いで戻り電話した。
鹿の状態によって対応の仕方が異なる。
まだ息があり生きているときは、市役所が対応するが、
既に死んでいる場合は、道路公団の所轄になる。
いずれにしても道路交通上危険な状態にあり、
また、砂川市内においては現在鹿の有害駆除の対象になっている
ときだけにその処理は微妙なのである。
一応、砂川猟友会の事務局をしている喫茶店インパラの藤井さんにも
電話連絡(留守電)した。
役所からのこうした依頼は即猟友会の事務局にくることが
通例であるからである。
鹿のこうした車両衝突による悲劇が年々多くなって来ている。
それだけ、道東の鹿が空知管内にも劇的に移動、増加しているのを
物語っている。
人の住む安全な近所の林で生まれたひとつの小鹿物語は悲劇の
うちに終わった。
この鹿の家族と仲のよかったもうひと家族がまだいるのを知っている。
野生動物がひとと共生ができない出来事なのか、
単なるひとに責任ある交通事故なのか、あるいは悪質な速度違反を
伴う悪質な事故なのかはわからない。
その命を奪った車両は警察にも届けることなく立ち去ってしまった
ことは事実である。
昨年の春、隣接する渡辺さんの水田の畦道を、バンビが二頭
追いかけっこをしたりしながら、元気に走り回っているのを
わたしは何度も見た。
そのひとつの雌鹿の親子であることは間違いない。
この道路は、私の愛犬だった、札幌北都道院の成田實先生に
いただいた柴犬 紅天海が、今外国で仕事をしている長男航洋と
散歩中に車に巻き込まれて犠牲になった道路である。
150メートルと離れていない場所なのである。
その車も天海を撥ねたまま走り去った。
息子から連絡をもらい、道路に横たわっていた天海を
抱きかかえたそのときのことを今でも鮮明に覚えている。
即死だった。
泣いていた息子の姿も痛々しかった。
航洋も帰国するたびにその現場に行っているようである。
私は毎朝その場所を歩行禅の場所としているのである。
人間を撥ねたなら、それこそただ事では済まないのだが!
長男はもちろん、家族皆から愛されていた天海を失ったショックが
しばらく続いた。
成田先生には、後日報告したのだが、何とも残念なことであった。
誠に申し訳なく思ったものである。
長男の部屋には、紅天海の凛々しい姿の写真が飾られている。
長女詩帆の二番目の1歳半の娘、私には3歳の孫、聖夏(せな)の
妹、安海(あんみ)が天海の名前、海を使っていることを
今これを書いていて気がついた。
哀れ雌の親子の鹿。
そしてこの死を通して思い出された紅天海。
同じ道路で逝った愛すべき動物たち、この死を通して私たちに残した
こととは何なのか?
さて、、、武専、倉本聰先生の思い出は次回に書き込みます。
松林拳士が砂川に稽古に行きますと武専会場で言っていた。
北海道少林寺拳法連盟のホームページが改定されたとのこと。
どのようになったか後で見てみたい。
合掌再拝 池上治男
9月13日以後の稽古は予定通りです。
すべて日程において指導参坐します。
9月24日の滝川の稽古後、本部に向かいます。
9月25日の本部特別昇格試験の考試員を務めます。
2011年9月3日土曜日
2011年9月 倉本先生との思い出・北大少林寺拳法部合宿、義理の兄の死
合掌
まず、倉本先生との思い出についての続き
昭和58年の12月25日雪の降りしきる中、自宅前の道場に倉本先生ひとりで車を運転してやって来ました。
私が「凄い車ですね。」と言ったら先生は「いやトラックじゃありませんよ。」と何か聞き間違いをされたようだ。
私が言ったのは可也の吹雪の中をそれも暗い中、ランドクルーザのような車に見えたので凄い車ですね。この雪の中雪をものともせずやってくるのは凄いと感じて最初の会話がそれであった。
車は、四輪駆動の左ハンドルのベンツであったのがすぐに分かった。
皆さん、人に会うときに印象に残る設定は大事であることがお分かりか?
クリスマスの夜、しかも吹雪の中の箱型の四輪駆動のベンツで現れるなど、絵に描けるような登場の仕方ではないか。
この人が、日本中を圧巻させることになる倉本先生なのである。
で、道場に入り、当時、道場は薪ストーブそれも安物の薪ストーブである。
ただ、安物であっても寒いクリスマスの夜にはもってこいの暖房である。
倉本先生のログハウスも勿論薪ストーブであったに違いない。
北欧の本格的なものであったであろう。
我が道場のストーブは安物なので薪が一気に燃えてしまい部屋の中が熱くはなるのだがせっかくの薪の効率の悪い燃焼状態であった。
先生は、それを見てストーブの前の薪投入口を開け放った。そうすると、燃え方が遅くなると言うのである。それは分かっていたが、ところが悪いことに、煙が充満する羽目になった。せっかくの先生の申し出でもあり、ややしばらく煙我慢の時が過ぎていった。
道場で早速ドラマについての先生の話が始まりました。
このとき、私の他に当時の砂川の中川市長にも同席を頂いた。ドラマが砂川にも関わることになるのでということと、当時の市長は一期目の頃であった。
ドラマの舞台は砂川を中心とする周辺の炭鉱町を舞台にする若者の青春グラフィテイであること、ドラマの町の名前が「悲別」。
実は、これが参った。
当時、上砂川町は、閉山の話が進み、尚、国鉄砂川~上砂川、砂川~歌志内の鉄道がまだあった時代の話である。
悲しい別れと名のつくドラマの協力を、流石の上砂川町出身の私には少し考えさせられるものであったからである。
砂川の名前は実名となるようであった。
続きは次回。
北大少林寺拳法部の合宿の指導に行ってきた。8月27日の滝川クラブの稽古の後大雪青少年交流の家に向かった。
旭川経由がいいか富良野経由がいいか迷ったが旭川経由で美瑛町に向かった。
北大の少林寺拳法部の今年の合宿には、監督の野坂君と私、そしてOBの三浦君が指導に当たった。
私の指導は、学生のレベルを見て基本を正しくという意味、つまり出鱈目を何回も練習しても出鱈目がうまくなるだけ、練習ではなく稽古であることの意味を説明した。
なぜ少林寺拳法の演武が護身に有効であることも理解されたなら嬉しいのだが。
宗教の法話においても仏教の本来についても、学生であることの強みで研究することを勧めた。
短い期間ではあったが、自身有意義な時間であった。
滝川道院、砂川道院も以前のように合宿を通して視野を広げることも大事ではないかと久しぶりに感じた。
昼食の時に、学生に「倉本聡先生や北の国からのドラマを知っているか」と尋ねたら全く知らないという応えが返ってきて野坂君共々驚くばかりであった。
これが、今の時代なのだという現実を知った。
それでいいのだろう。
水曜日の稽古の途中に妻からの電話に驚いた。
妻の兄が意識不明で救急車で運ばれたと言うのである。
残りの稽古の時間を頼んで、妻と札幌に向かい手稲けいじんかい病院に到着。先に救急病室に向かっていた妻の兄の顔に手を当てて号泣する姿を目にした。
山本隆二、妻にとってはたった一人の実の兄、私より若いのであるが、55歳の人生であった。
救急救命室のあっけない対面であった。
兄の顔にすがりついた妻が痛々しかった。
2日通夜、3日葬儀をベルコ麻生シテイホール、私が葬儀委員長をやることになった。
身内との別れが続いてしまった。
今のおかれた風景をかえることはできない、あるがままを受け入れ、それを乗り越えていくことしかできない。
一切が自己、自己を自己することが真の仏教の真の姿。
人生何が短く何が長くなどとは決めることなどできない。
さて、これから母と雨の中会場に向かうとしよう。
合掌再拝 池上治男
まず、倉本先生との思い出についての続き
昭和58年の12月25日雪の降りしきる中、自宅前の道場に倉本先生ひとりで車を運転してやって来ました。
私が「凄い車ですね。」と言ったら先生は「いやトラックじゃありませんよ。」と何か聞き間違いをされたようだ。
私が言ったのは可也の吹雪の中をそれも暗い中、ランドクルーザのような車に見えたので凄い車ですね。この雪の中雪をものともせずやってくるのは凄いと感じて最初の会話がそれであった。
車は、四輪駆動の左ハンドルのベンツであったのがすぐに分かった。
皆さん、人に会うときに印象に残る設定は大事であることがお分かりか?
クリスマスの夜、しかも吹雪の中の箱型の四輪駆動のベンツで現れるなど、絵に描けるような登場の仕方ではないか。
この人が、日本中を圧巻させることになる倉本先生なのである。
で、道場に入り、当時、道場は薪ストーブそれも安物の薪ストーブである。
ただ、安物であっても寒いクリスマスの夜にはもってこいの暖房である。
倉本先生のログハウスも勿論薪ストーブであったに違いない。
北欧の本格的なものであったであろう。
我が道場のストーブは安物なので薪が一気に燃えてしまい部屋の中が熱くはなるのだがせっかくの薪の効率の悪い燃焼状態であった。
先生は、それを見てストーブの前の薪投入口を開け放った。そうすると、燃え方が遅くなると言うのである。それは分かっていたが、ところが悪いことに、煙が充満する羽目になった。せっかくの先生の申し出でもあり、ややしばらく煙我慢の時が過ぎていった。
道場で早速ドラマについての先生の話が始まりました。
このとき、私の他に当時の砂川の中川市長にも同席を頂いた。ドラマが砂川にも関わることになるのでということと、当時の市長は一期目の頃であった。
ドラマの舞台は砂川を中心とする周辺の炭鉱町を舞台にする若者の青春グラフィテイであること、ドラマの町の名前が「悲別」。
実は、これが参った。
当時、上砂川町は、閉山の話が進み、尚、国鉄砂川~上砂川、砂川~歌志内の鉄道がまだあった時代の話である。
悲しい別れと名のつくドラマの協力を、流石の上砂川町出身の私には少し考えさせられるものであったからである。
砂川の名前は実名となるようであった。
続きは次回。
北大少林寺拳法部の合宿の指導に行ってきた。8月27日の滝川クラブの稽古の後大雪青少年交流の家に向かった。
旭川経由がいいか富良野経由がいいか迷ったが旭川経由で美瑛町に向かった。
北大の少林寺拳法部の今年の合宿には、監督の野坂君と私、そしてOBの三浦君が指導に当たった。
私の指導は、学生のレベルを見て基本を正しくという意味、つまり出鱈目を何回も練習しても出鱈目がうまくなるだけ、練習ではなく稽古であることの意味を説明した。
なぜ少林寺拳法の演武が護身に有効であることも理解されたなら嬉しいのだが。
宗教の法話においても仏教の本来についても、学生であることの強みで研究することを勧めた。
短い期間ではあったが、自身有意義な時間であった。
滝川道院、砂川道院も以前のように合宿を通して視野を広げることも大事ではないかと久しぶりに感じた。
昼食の時に、学生に「倉本聡先生や北の国からのドラマを知っているか」と尋ねたら全く知らないという応えが返ってきて野坂君共々驚くばかりであった。
これが、今の時代なのだという現実を知った。
それでいいのだろう。
水曜日の稽古の途中に妻からの電話に驚いた。
妻の兄が意識不明で救急車で運ばれたと言うのである。
残りの稽古の時間を頼んで、妻と札幌に向かい手稲けいじんかい病院に到着。先に救急病室に向かっていた妻の兄の顔に手を当てて号泣する姿を目にした。
山本隆二、妻にとってはたった一人の実の兄、私より若いのであるが、55歳の人生であった。
救急救命室のあっけない対面であった。
兄の顔にすがりついた妻が痛々しかった。
2日通夜、3日葬儀をベルコ麻生シテイホール、私が葬儀委員長をやることになった。
身内との別れが続いてしまった。
今のおかれた風景をかえることはできない、あるがままを受け入れ、それを乗り越えていくことしかできない。
一切が自己、自己を自己することが真の仏教の真の姿。
人生何が短く何が長くなどとは決めることなどできない。
さて、これから母と雨の中会場に向かうとしよう。
合掌再拝 池上治男
2011年8月22日月曜日
2011年夏も終わり、清清しい秋がやって来た。倉本聡先生との思い出
合掌
10月の埼玉武専出張に関して、埼玉武専の担当者と電話連絡し日程について問い合わせた。
10月は私の弟が亡くなり、3回忌になる。私の母を伴い横浜の弟の墓前に参ることにしている。人の死は早いもので、特に身内親族ともなれば尚のことだ。
周りを見渡すと癌の再発やら、彼がもう大分ひどいようだとかの様子があちらこちらから知らされる。
先週の19日の金曜日の砂川クラブの稽古に京都の高津拳士(姉)が参加し夏休みの北海道最後の稽古だった。みんなから又来年もおいでよと誘われていた。最後に竹房拳士と演武を行った。思い出になればいい。
今年の夏の花火は、日本人にとって特別な思いで見たのではないだろうか?
今生きている人が今その瞬間を刹那を見るのが花火。
人の心識が織り成すこころの変化はただそのひとのものであり、座禅の境地に通じるものがあるのかもしれない。
座禅は何のためにもだれのためにもするものではなく、ただ座禅するものである。
ただ自己を生きる、己を生きる、そして命を終える絶対事実を花火の刹那に見出すから心識もひとりひとりのものなのである。
土曜日のテレビに久しぶりに倉本先生を見た。
富良野塾の思い出とその塾生の卒業後の変化についてであった。
震災に対する先生の思いやら、怒りを語るものであったように受け止めた。
原発の不要を言いたかったのだろうが、電気製品の不要、物をすぐに捨てる等に関して、北の国の黒板五郎に重ね合わせた内容であった。
田中邦衛の北の国からの演技に今も通じることをメッセージとして伝えてあったのだと言っているようだった。これは再放送があると思われるので、機会があれば見ておいてもいいだろう。
昭和58年12月25日クリスマスの冬の夜、倉本先生が私を訪ねて自宅内敷地にある専有道場に来られた。
北の国からの放映の合間に、別のドラマをつくるのでいろいろな炭鉱町についての取材であった。
私の町は砂川、そして道場のある場所はその炭鉱町の中心にある。
上砂川町、歌志内市(日本で一番人口の少ない市)、赤平市、芦別市、滝川市等の中心が我が砂川道院専有道場、昭和50年に東京の仕事を辞め、現在地に自宅を建てそして道場を建てたのである。
この話は富良野の小玉先生が電話をしてきて、今富良野の倉本さんという人から、何かドラマを炭鉱のまちを舞台にしてつくるので誰か知っているひとがいたら紹介して欲しいというので電話したとのことだった。
「塾生に少林寺拳法を教えて欲しい。」と倉本先生に小玉先生が頼まれたのだが、「塾生はお金が無いので云々。」ということで、確か、当時小玉先生は少林寺拳法の正式な入門手続きが必要と言うことで教えるのを断ったというようなことを言われたように記憶しているが、今となっては定かでない。
小玉先生の門下生に北の国のドラマ作りに関係していることからの話があったようだった。
小玉先生には、倉本先生の取材協力の了解の旨を伝えました。
この電話があった時期だが、夏或いは今頃の季節であったかどうか全く記憶が定かでない。
当時私は、倉本という人がどんな人かも知らない頃であった。
そうしたことを忘れた頃であったか、雪が既に降っていた頃であったと思うが、電話がかかってきた。
「倉本ですが、池上さんを紹介されたのですが25日にお伺いしたいのですがどうでしょうか?」というものだった。
勿論、「どうぞ、いらしてください」返事をした。
当時私は、砂川の市議になったばかりで、この地域を舞台にドラマをつくってもらえるならこんないいことはないだろうと思ったことは鮮明に記憶している。
続きは次回!
最近の砂川クラブの稽古、夏休みも終わり、先週の水曜日は30人以上が集まった。
稽古の終わり頃、参加拳士全員にその日の技術を交えて、6構成の演武を必ずやってもらうことにしているが、最近皆うまい下手は別にして、大分慣れてきたように思われる。
演武は、いざというとき護身に最も有効な方法であることに気付いてもらいたい。
演武構成に双方乱捕りを取り入れることでさらにその効果を大いに発揮する。
法形と乱捕りの演武、更には乱捕りだけの演武、こうした手法を大いに研究すべきである。
毎朝の鎮魂行、筋肉強化等自己の人生を生きる自己を大事に育てることは、教育の観点からも大事なこと。
教育は他にするだけではなく自己にすることこそ求められる。
自己に自己することである。
お知らせ
大月拳士が、医学書を書いてまもなく発売されることになったようです。
精神科の医師なのでそうした範疇のものでしょう。是非購入して読んでみましょう。購入した拳士は、記念に大月拳士のサインをもらいましょう。
北大少林寺拳法部のメーリングリストに投稿されたメール
本と言えば、読書は人間にしか出来ない特殊な能力、ひとそれぞれですが読まないより読んだ方がいいと思います。
一日一冊!
今週も予定通りの稽古ですが、23日火曜日の学科は建物の塗装工事が終わっていないので中止とします。
水曜日、金曜日は砂川クラブの稽古、土曜日は滝川クラブの稽古。
特に、滝川クラブの稽古には砂川の拳士も参加するようにしてください。
午前中の稽古が身心にとっても良いものです。
最後に秋は体力づくりに最適な季節、少林寺拳法の仲間づくりのために是非各拳士ご父兄の方々に一人でも多く少林寺拳法を勧めていただくようにお願いします。
合掌再拝 池上
ブログの題名をクリックすると画面が変わり見やすいものになります。
10月の埼玉武専出張に関して、埼玉武専の担当者と電話連絡し日程について問い合わせた。
10月は私の弟が亡くなり、3回忌になる。私の母を伴い横浜の弟の墓前に参ることにしている。人の死は早いもので、特に身内親族ともなれば尚のことだ。
周りを見渡すと癌の再発やら、彼がもう大分ひどいようだとかの様子があちらこちらから知らされる。
先週の19日の金曜日の砂川クラブの稽古に京都の高津拳士(姉)が参加し夏休みの北海道最後の稽古だった。みんなから又来年もおいでよと誘われていた。最後に竹房拳士と演武を行った。思い出になればいい。
今年の夏の花火は、日本人にとって特別な思いで見たのではないだろうか?
今生きている人が今その瞬間を刹那を見るのが花火。
人の心識が織り成すこころの変化はただそのひとのものであり、座禅の境地に通じるものがあるのかもしれない。
座禅は何のためにもだれのためにもするものではなく、ただ座禅するものである。
ただ自己を生きる、己を生きる、そして命を終える絶対事実を花火の刹那に見出すから心識もひとりひとりのものなのである。
土曜日のテレビに久しぶりに倉本先生を見た。
富良野塾の思い出とその塾生の卒業後の変化についてであった。
震災に対する先生の思いやら、怒りを語るものであったように受け止めた。
原発の不要を言いたかったのだろうが、電気製品の不要、物をすぐに捨てる等に関して、北の国の黒板五郎に重ね合わせた内容であった。
田中邦衛の北の国からの演技に今も通じることをメッセージとして伝えてあったのだと言っているようだった。これは再放送があると思われるので、機会があれば見ておいてもいいだろう。
昭和58年12月25日クリスマスの冬の夜、倉本先生が私を訪ねて自宅内敷地にある専有道場に来られた。
北の国からの放映の合間に、別のドラマをつくるのでいろいろな炭鉱町についての取材であった。
私の町は砂川、そして道場のある場所はその炭鉱町の中心にある。
上砂川町、歌志内市(日本で一番人口の少ない市)、赤平市、芦別市、滝川市等の中心が我が砂川道院専有道場、昭和50年に東京の仕事を辞め、現在地に自宅を建てそして道場を建てたのである。
この話は富良野の小玉先生が電話をしてきて、今富良野の倉本さんという人から、何かドラマを炭鉱のまちを舞台にしてつくるので誰か知っているひとがいたら紹介して欲しいというので電話したとのことだった。
「塾生に少林寺拳法を教えて欲しい。」と倉本先生に小玉先生が頼まれたのだが、「塾生はお金が無いので云々。」ということで、確か、当時小玉先生は少林寺拳法の正式な入門手続きが必要と言うことで教えるのを断ったというようなことを言われたように記憶しているが、今となっては定かでない。
小玉先生の門下生に北の国のドラマ作りに関係していることからの話があったようだった。
小玉先生には、倉本先生の取材協力の了解の旨を伝えました。
この電話があった時期だが、夏或いは今頃の季節であったかどうか全く記憶が定かでない。
当時私は、倉本という人がどんな人かも知らない頃であった。
そうしたことを忘れた頃であったか、雪が既に降っていた頃であったと思うが、電話がかかってきた。
「倉本ですが、池上さんを紹介されたのですが25日にお伺いしたいのですがどうでしょうか?」というものだった。
勿論、「どうぞ、いらしてください」返事をした。
当時私は、砂川の市議になったばかりで、この地域を舞台にドラマをつくってもらえるならこんないいことはないだろうと思ったことは鮮明に記憶している。
続きは次回!
最近の砂川クラブの稽古、夏休みも終わり、先週の水曜日は30人以上が集まった。
稽古の終わり頃、参加拳士全員にその日の技術を交えて、6構成の演武を必ずやってもらうことにしているが、最近皆うまい下手は別にして、大分慣れてきたように思われる。
演武は、いざというとき護身に最も有効な方法であることに気付いてもらいたい。
演武構成に双方乱捕りを取り入れることでさらにその効果を大いに発揮する。
法形と乱捕りの演武、更には乱捕りだけの演武、こうした手法を大いに研究すべきである。
毎朝の鎮魂行、筋肉強化等自己の人生を生きる自己を大事に育てることは、教育の観点からも大事なこと。
教育は他にするだけではなく自己にすることこそ求められる。
自己に自己することである。
お知らせ
大月拳士が、医学書を書いてまもなく発売されることになったようです。
精神科の医師なのでそうした範疇のものでしょう。是非購入して読んでみましょう。購入した拳士は、記念に大月拳士のサインをもらいましょう。
北大少林寺拳法部のメーリングリストに投稿されたメール
皆さんお元気ですか?私はこのたび金剛出版から『語る記憶―解離と語りの文化精神医学』を出しました.書店へは9月頃から並ぶように思います.機会があったら見てみてください。
大月康義
本と言えば、読書は人間にしか出来ない特殊な能力、ひとそれぞれですが読まないより読んだ方がいいと思います。
一日一冊!
今週も予定通りの稽古ですが、23日火曜日の学科は建物の塗装工事が終わっていないので中止とします。
水曜日、金曜日は砂川クラブの稽古、土曜日は滝川クラブの稽古。
特に、滝川クラブの稽古には砂川の拳士も参加するようにしてください。
午前中の稽古が身心にとっても良いものです。
最後に秋は体力づくりに最適な季節、少林寺拳法の仲間づくりのために是非各拳士ご父兄の方々に一人でも多く少林寺拳法を勧めていただくようにお願いします。
合掌再拝 池上
ブログの題名をクリックすると画面が変わり見やすいものになります。
2011年8月14日日曜日
2011年8月 宇治岡屋支部から高津姉妹がやって来た。
2011年もいよいよお盆;夏の北海道、短い暑さ。
北海道は本州から来られている人にとっては束の間の過ごしやすい季節でもある。
滝川道院砂川道院は夏も通常通りの稽古です。
以前は、夏休みに合わせて稽古の日程も少なくした時期もありました。
在籍拳士の夏の過ごし方も以前と変化し、割と夏休みの季節に市外に出かけるのが少なくなってきたのも一つの要因です。
また、ここ数年、イギリスのダラム大学との交流などで彼らが滝川・砂川に訪問してくれるようになったその日程にも起因しています。
本山本部での夏合宿の帰りに北海道の姉妹道院の私の所への訪問。
つまり、私たちが滝川砂川を留守にするわけにはいかなくなった。
また、中学生大会或いは北海道大会等のための稽古を疎かにすることができなくなったことも要因に挙げられます。
それ以上に、私自身が一日でも少林寺拳法の指導を夏休み期間も行う楽しさが一番の要因でもあります。
武専の指導で道内外にでかけることが多くなったために、自分の道院また監督をしている二つの大学の指導のために一日でも多く指導日を設定しなければならないことが最も大きな要因であるのではないかとも思います。
兎に角、「一年中稽古稽古で明け暮れている。」わけです。
ここ数年、京都宇治岡屋支部 辻崎先生の所から
小学校4年の高津聖良(こうづ きよら)、
小学校3年の璃良(あきら)の姉妹拳士が夏休み期間中砂川道院の稽古に来るようになりました。
二人とも4級拳士。
数年前、二人が雨竜町の祖父母の家に遊びに来た時に、私の所に電話がありました。
おばあちゃん曰く、京都で孫が少林寺拳法を始めたのですが、夏休み期間中私の道場に来てもいいかというものでした。
勿論、快諾。
しかし、初めて来たときはまだ小学校に入学して間もない年齢。
そのときの道場の稽古は、全国中学生大会のための稽古の真っ最中。
かなり私の指導の状況が二人にとっては驚愕のものであったと見えて、稽古に参加するどころではなく、泣き出してしまったのが今思い出される次第。
昨年は確か姉だけが稽古に来たはず、しかし今年の夏は驚いたことに姉妹揃って来たので、道院の皆も驚いたというより、二人が成長したことに喜びを禁じ得なかった。
継続は力なり!
他人の釜の飯を食べることも成長のためには必要なこと。
鎮魂行にも参禅し、短い夏の思い出にもなれば幸い。
少林寺拳法の絆はこうした交流から生まれる。
気負うことなく、稽古の最初から最後まで遣り通すことが成長のエネルギーになることは間違いない。
暑い京都から毎年、優しい祖父母のまちを訪れ、その時に地元の道院に顔を出す、これぞ誠の教育ではないか。
「身体を父母より享けたることを感謝する人間になる」ことは間違いないであろう。
こうした一年の道場の季節感から、我が道院はお盆だけの休みで、後は日々変わらずの稽古修行の日々が秋へと続きます。
お知らせ:砂川の銀座通り砂川道院の外装工事(前面塗装工事)のために、16日の学科の稽古日は休みといたしました。
壁からの雨漏りが激しく建物所有者が塗装工事をお盆休み中に突貫工事で行うこととなった。
北海道は本州から来られている人にとっては束の間の過ごしやすい季節でもある。
滝川道院砂川道院は夏も通常通りの稽古です。
以前は、夏休みに合わせて稽古の日程も少なくした時期もありました。
在籍拳士の夏の過ごし方も以前と変化し、割と夏休みの季節に市外に出かけるのが少なくなってきたのも一つの要因です。
また、ここ数年、イギリスのダラム大学との交流などで彼らが滝川・砂川に訪問してくれるようになったその日程にも起因しています。
本山本部での夏合宿の帰りに北海道の姉妹道院の私の所への訪問。
つまり、私たちが滝川砂川を留守にするわけにはいかなくなった。
また、中学生大会或いは北海道大会等のための稽古を疎かにすることができなくなったことも要因に挙げられます。
それ以上に、私自身が一日でも少林寺拳法の指導を夏休み期間も行う楽しさが一番の要因でもあります。
武専の指導で道内外にでかけることが多くなったために、自分の道院また監督をしている二つの大学の指導のために一日でも多く指導日を設定しなければならないことが最も大きな要因であるのではないかとも思います。
兎に角、「一年中稽古稽古で明け暮れている。」わけです。
ここ数年、京都宇治岡屋支部 辻崎先生の所から
小学校4年の高津聖良(こうづ きよら)、
小学校3年の璃良(あきら)の姉妹拳士が夏休み期間中砂川道院の稽古に来るようになりました。
二人とも4級拳士。
数年前、二人が雨竜町の祖父母の家に遊びに来た時に、私の所に電話がありました。
おばあちゃん曰く、京都で孫が少林寺拳法を始めたのですが、夏休み期間中私の道場に来てもいいかというものでした。
勿論、快諾。
しかし、初めて来たときはまだ小学校に入学して間もない年齢。
そのときの道場の稽古は、全国中学生大会のための稽古の真っ最中。
かなり私の指導の状況が二人にとっては驚愕のものであったと見えて、稽古に参加するどころではなく、泣き出してしまったのが今思い出される次第。
昨年は確か姉だけが稽古に来たはず、しかし今年の夏は驚いたことに姉妹揃って来たので、道院の皆も驚いたというより、二人が成長したことに喜びを禁じ得なかった。
継続は力なり!
他人の釜の飯を食べることも成長のためには必要なこと。
鎮魂行にも参禅し、短い夏の思い出にもなれば幸い。
少林寺拳法の絆はこうした交流から生まれる。
気負うことなく、稽古の最初から最後まで遣り通すことが成長のエネルギーになることは間違いない。
暑い京都から毎年、優しい祖父母のまちを訪れ、その時に地元の道院に顔を出す、これぞ誠の教育ではないか。
「身体を父母より享けたることを感謝する人間になる」ことは間違いないであろう。
こうした一年の道場の季節感から、我が道院はお盆だけの休みで、後は日々変わらずの稽古修行の日々が秋へと続きます。
お知らせ:砂川の銀座通り砂川道院の外装工事(前面塗装工事)のために、16日の学科の稽古日は休みといたしました。
壁からの雨漏りが激しく建物所有者が塗装工事をお盆休み中に突貫工事で行うこととなった。
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