合掌
まず、倉本先生との思い出についての続き
昭和58年の12月25日雪の降りしきる中、自宅前の道場に倉本先生ひとりで車を運転してやって来ました。
私が「凄い車ですね。」と言ったら先生は「いやトラックじゃありませんよ。」と何か聞き間違いをされたようだ。
私が言ったのは可也の吹雪の中をそれも暗い中、ランドクルーザのような車に見えたので凄い車ですね。この雪の中雪をものともせずやってくるのは凄いと感じて最初の会話がそれであった。
車は、四輪駆動の左ハンドルのベンツであったのがすぐに分かった。
皆さん、人に会うときに印象に残る設定は大事であることがお分かりか?
クリスマスの夜、しかも吹雪の中の箱型の四輪駆動のベンツで現れるなど、絵に描けるような登場の仕方ではないか。
この人が、日本中を圧巻させることになる倉本先生なのである。
で、道場に入り、当時、道場は薪ストーブそれも安物の薪ストーブである。
ただ、安物であっても寒いクリスマスの夜にはもってこいの暖房である。
倉本先生のログハウスも勿論薪ストーブであったに違いない。
北欧の本格的なものであったであろう。
我が道場のストーブは安物なので薪が一気に燃えてしまい部屋の中が熱くはなるのだがせっかくの薪の効率の悪い燃焼状態であった。
先生は、それを見てストーブの前の薪投入口を開け放った。そうすると、燃え方が遅くなると言うのである。それは分かっていたが、ところが悪いことに、煙が充満する羽目になった。せっかくの先生の申し出でもあり、ややしばらく煙我慢の時が過ぎていった。
道場で早速ドラマについての先生の話が始まりました。
このとき、私の他に当時の砂川の中川市長にも同席を頂いた。ドラマが砂川にも関わることになるのでということと、当時の市長は一期目の頃であった。
ドラマの舞台は砂川を中心とする周辺の炭鉱町を舞台にする若者の青春グラフィテイであること、ドラマの町の名前が「悲別」。
実は、これが参った。
当時、上砂川町は、閉山の話が進み、尚、国鉄砂川~上砂川、砂川~歌志内の鉄道がまだあった時代の話である。
悲しい別れと名のつくドラマの協力を、流石の上砂川町出身の私には少し考えさせられるものであったからである。
砂川の名前は実名となるようであった。
続きは次回。
北大少林寺拳法部の合宿の指導に行ってきた。8月27日の滝川クラブの稽古の後大雪青少年交流の家に向かった。
旭川経由がいいか富良野経由がいいか迷ったが旭川経由で美瑛町に向かった。
北大の少林寺拳法部の今年の合宿には、監督の野坂君と私、そしてOBの三浦君が指導に当たった。
私の指導は、学生のレベルを見て基本を正しくという意味、つまり出鱈目を何回も練習しても出鱈目がうまくなるだけ、練習ではなく稽古であることの意味を説明した。
なぜ少林寺拳法の演武が護身に有効であることも理解されたなら嬉しいのだが。
宗教の法話においても仏教の本来についても、学生であることの強みで研究することを勧めた。
短い期間ではあったが、自身有意義な時間であった。
滝川道院、砂川道院も以前のように合宿を通して視野を広げることも大事ではないかと久しぶりに感じた。
昼食の時に、学生に「倉本聡先生や北の国からのドラマを知っているか」と尋ねたら全く知らないという応えが返ってきて野坂君共々驚くばかりであった。
これが、今の時代なのだという現実を知った。
それでいいのだろう。
水曜日の稽古の途中に妻からの電話に驚いた。
妻の兄が意識不明で救急車で運ばれたと言うのである。
残りの稽古の時間を頼んで、妻と札幌に向かい手稲けいじんかい病院に到着。先に救急病室に向かっていた妻の兄の顔に手を当てて号泣する姿を目にした。
山本隆二、妻にとってはたった一人の実の兄、私より若いのであるが、55歳の人生であった。
救急救命室のあっけない対面であった。
兄の顔にすがりついた妻が痛々しかった。
2日通夜、3日葬儀をベルコ麻生シテイホール、私が葬儀委員長をやることになった。
身内との別れが続いてしまった。
今のおかれた風景をかえることはできない、あるがままを受け入れ、それを乗り越えていくことしかできない。
一切が自己、自己を自己することが真の仏教の真の姿。
人生何が短く何が長くなどとは決めることなどできない。
さて、これから母と雨の中会場に向かうとしよう。
合掌再拝 池上治男
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