2011年5月23日月曜日

被災地NO4完 陸前高田から北海道へ

4日朝陸前高田の少林寺拳法活動基地にて朝食を一緒にとり、その後私たちは皆さんに別れを告げ後ろ髪をひかれる思いで基地を後にしました。

別れる際、愛知県連盟の副理事長が名刺をというので、持っていた札幌学院大学少林寺拳法部の監督の名刺を差し上げました。頂いた名刺を拝見して愛知県連盟の副理事長であることを知りました。東海武専には何度か派遣されたことを話したのですが、どうも私の印象は薄かったようです。

基地の坂をおり、張った団旗を見ながら一路青森を目指しました。
前日、陸前高田市の災害対策本部において、帰路の高速道路が無料になる支援物資の陸前高田市長名の受領書をもらいました。
往路は一般道を走り被災地を隈なく見ることが出来たのですが、帰路はできるだけ早く戻ることで時間の節約を図ることとしたかったわけです。

宮末先生のランドクルーザーは時速80キロを限度として走行することにしており、高速に入ってもそれほど無理な走行にはなりません。帰路の高速道路、かなりの雨が降っているのも時間を要しました。途中私が運転、慣れないマニュアルのため宮末さんがかなり心配されたようです。

青森発11時半のフェリーには間に合わないであろうという宮末さんの判断。私は、何とかぎりぎりに着けば、乗れるだろうという期待を持って、時速90キロを、横で寝ている宮末さんを横目に走行。

青森港に着いたのは出発時間の5分前、雨であること、連休の最終に近い日時、被災の関係で観光客の激減、恐らく一台でも乗せたい船会社の思惑を予想し何とか乗れるのでないかと!
宮末さんに兎に角、受付に行ってみてと私。戻ってきた宮末さん、先生直接2番ゲートへ行って、乗れるからと!
この後、4時間を待たなくて済むことが出来ました。予想通り、船内はガラガラ、被災の影響が諸に出ていることを知った。

船内で、宮末さんが、道東のある町長が乗っていると告げられた。恐らく被災地へ行って来たのだろうと予想された。
船内では日本ハムのゲームをテレビ中継されていた。中田が丁度打席に立っていた。電波の状況も悪かったが、昼食とも言えない昼食をとり、被災地を思いやりながら函館に到着するのを待った。こうしたゆっくりした船の時間は昭和50年以来のことだった。
27次南鯨事業参加以来の船旅。
余りにも静かな穏やかな海、低気圧の接近による風が強かったが、津軽海峡が荒れることは無かった。

函館到着の後、大沼公園(ここで何かのイベントのため渋滞に巻き込まれた)を過ぎ、やがて高速道路に入った。

札幌南インターで高速道無料の関係で担当者とやや議論、しかし、無料で通過。

午後9時過ぎに砂川奈井江インターで道路公団職員とやや口論となった。つまり、被災地の受領書だけでは駄目で、上から、各自治体の無料の更なる書類手続き用紙を必要とするのでそれを用意して欲しいとのこと。
今から、この夜中に疲れ切った状況で取りにいけというのか、こんな夜中に役所が開いている訳が無い、それは無理な要求だ。
いや、後から届けてもらってもいい。
この人は今から、砂川で私をおいて、北見に走る別の書類の要件は無理がある。
いや、お客さんの言われることが最もなのだが、私たちにこうした書類を出すようにとのお達しがあるので仕方が無いのです。

青森の道路公団では、その受領書をコピーして通過させてくれた。

いや、向こうは被災地なので、その別の書類は、提出しなくてもいいことになっています。
しかし、被災地に赴く人間は、道北道、北海道関係なく通過するのだから、その都度、どこの自治体でもいいから別書類を持ってきてくれというのはおかしな話だ。
それこそ、お役所仕事で、その書類を例え持って来たとして誰に提出するのか、被災地の陸前高田市長の名の入った受領書があれば、それで済むはず。
陸前高田の担当者は、それこそ水戸黄門の印籠と同じとまで言っていたよ。
ここで、議論するのは本意ではなかったが、しかし、日本の全体の共有することだけに、こうしたお役所仕事的書類提出には断固反対した方が良いであろうと、私が交渉。
最終的に相手が根負けして、車のナンバー、受領書の内容の記載後、通過した。
担当者も仕事を真面目にこなそうとした訳で、全く悪気はないのは百も承知。何かあれば連絡を寄越しますとのこと。

受領書は、宮末さんが携行することとなった。
そんなんで、自宅に到着が午後10時過ぎ。
宮末さんが軽い食事の後、休憩し、北見に向かった。

翌日は、5日連休最終日、この日かなり疲れてはいたが、被災地から戻ったことを関係者に連絡。
私の左側の喉をちょっと触ってもかなりの激痛が走った。
恐らくテント生活で枕が無かったために、リンパの流れが悪く、またかなりの冷え込みもあり、さらに強風による土埃等の影響の痛みではないかと。
これがこの後、一週間ほど続いた。痛みが取れると共に通常の生活に戻りつつあったが、心は被災地にあった。

被災地に赴くに当たってお世話になった関係者に心からお礼を申し上げたいと存じます。

8日の北海道武専の際、松村先生、福田先生にも会うことが出来るだろうし、その際、互いに思いを交換することができるだろうと思いを馳せた。

そして、今日も被災地の人たち、活動に参加している人たちへの思いを被災地に行く前とは違った感情を持ったのは事実。

是非、一度は被災地へ行くことを心から願う次第です。その場に立つことの意味はそこに立てば答えが自ずと分かるはずです。

合掌再拝 池上

2011年5月11日水曜日

陸前高田 NO3 森拳士のアメリカ報告5月10日

合掌
5月3日
午前6時起床。静岡県裾野市のグループは、急遽、災害協定を締結している相馬市を訪問する関係で、基地を後にすることとなり私たちは支援基地で見送った。

昨夜、裾野市市議会議員と今回の被災に対する支援物資の配布等について私から伝えた。自治体に届けられた物資を配布することが出来ずに溜まる一方であり、支援物資が余っているのではなく、単に配布ができないでいるということ。もし、万が一にも被災自治体が支援物資はたくさんありもう送らなくてもいい等と言う様なことが流布されたらとんでもないことになる、被災地に対しての考え方が変化し協力を得られなくなる懸念があること。支援されるもの、事に関して現段階で決して不用意な発言には十分留意すること、本部の藤井君にも十分注意した。

そうした話し合いの下、裾野市議会議員のご好意、日本一の水を始め多くの支援物資を陸前高田の我が基地を通し陸前高田の被災対策本部に届けることとなり車から支援物資を基地内に運び込みました。
藤井君が受領した。感謝!

仲間が去った後はやはり寂しい、しかしやる気も溢れてくる

宮末さん、埼玉の拳士2名、埼玉県の拳士の奥様、畑山先生とそのご子息、陸前高田女性2名、そして私の合計9人で、子供たちが通るための歩道を整備した。津波で押し固められた歩道をスコップで土砂を取り除き、箒で綺麗に鏡面の如く約200メートル施工した。

作業中の午後2時過ぎ新井会長一行が現場に到着
荒井拳士、新潟県連盟の夏川先生、小千谷道院長他2名であった。新潟の米を数俵その他の物資を基地に届けられたとのこと。
夏川先生はもう3回来ているのだと私に話してくれました。
さすが東北の仲間!
小千谷道院長は、私たちの作業を見て、「今日は被災地視察ですが明日から手伝います。」と力強い言葉。

新井会長は、私が北海道から持ってきた支援物資を陸前高田の基地から車に積んできてくれたこと、そしてそれを柏木博文道院長に全部渡していただくよう確認しました。その支援物資には、砂川道院の竹房いぶき拳士と小学校の友達2名の手紙も入っていました。
短時間の会見の後、会長一行は宮城に向かいました。

作業再開!
ここで、歩道を覆っていた屋根の鉄板を宮末さんの60型ランドクルーザーのウィンチで引っ張り取り除くことができました。
その結果、200メートルの歩道回復を果たすことが出来ました。

作業を終了!実は、歩道の整備の場所は、かの有名な歌手の千昌夫の生家の前で、その家は津波で壊滅していました。
津波の入ってきた海はその歩道からかなり遠くにあります。1キロはあるのではないか!道路と海との間は水田であったようですがその面影は全くありません。

夕方、新潟の小千谷道院3名が基地に到着。ここで画期的なことがありました。
会長が持参された財団旗をどこに張るかでこの基地の責任者畑山さんが悩みました。
私は、「大きい団旗を外に張ったらいい。」と言うと、畑山さんは、「雨に濡れては」と心配。
私は、駄目になったらまた持ってきてもらったらいい、私が責任を取るから大きい旗を外に張ったらいいと主張、400メートル眼下にみえる支援センターからも見える基地集会所の外に張りました。
新潟の大工の二人の拳士の素早い作業であっという間に!

戻ってきた藤井君は、素晴らしい、こうしたかったのです、本当に良かった。
修行を積んだ藤井君の団旗に対する想いが我らと同じで安心したものです。
成長したものだと感心しました。
私が団長で参加した1990年?鄭州での第一回武術祭に藤井君若かりし頃一緒に行ったことを思い出した。これについてはまたいつか思い出として書きたいと思う。

新潟の拳士2名が職業大工!こうした専門職が被災地には必要!やれることの幅が広がります。

愛知県連盟の佐竹令子副理事長一行も合流し、夕食のおかずをつくって頂いた。
女性ならではの、サラダの盛り付け。

夕食開始の際、藤井君は私に挨拶をしてくれといういう依頼。
私は、「千年に一度の被災、総裁は既に被災地に二度も入られています。
同士相親しみ、相援け、とあるように、支援物資を届けること以上に、心を届けるのだということ、今日ここに来られているということは、心を運んできたのです。開祖なら恐らく全員結集を号令したはず、明日も頑張りましょう。」
藤井君は、今私たちのやっていることは間違いないことですよね!と私に同意を求めた発言!間違いない、開祖が生きていたら当然だと言うだろう。
君がいなければここまでみんなもやれないだろう、自信を持っていい。
たいした奴だと伝えた。

総裁を見てご覧、真っ先に来ている

被災地が安全かどうかを確かめてから来るなどとんでもない。
中には現地に今来ると迷惑だからと言われたからいく必要が無い等と、来る気がないから、被災地に行かない言い訳を考えているようなら少林寺拳法の拳士とは言えない。
千年に一度の被災、安全を確保してからだと、千年後に来るというのか、大変なときだからこそ、こうしてここにいることが少林寺拳法の本物の拳士の行動だ。
被災地に来なければ本当の状況は分からないのだから!
何も見もしないで何も行動を起こしもしないで何が分かるのか!
情けない話だ!
総裁の言うように、何かを探して行動しなければの言葉は現地に行ったから言えることなのではないか
行動の起こさない人は今からでも遅くは無い、まず行動!活動!前進!進化せよ!
使命感を持って行動!

18時21分 柏木博文先生から私の携帯に電話。
新井会長から私の支援物資を受け取りましたと、お礼の電話がありました。いくらかでもお役に立てればこれに越したことはない!よかった!

午後八時にはテントに移動、早々と就寝。

次のメールは、滝川道院副道院長 森義昌拳士からのメールです
合掌
ご無沙汰しております。
陸前高田市における救援活動大変お疲れ様でした。
ブログからその大変さがひしひしと伝わってきました。
現地の悲惨な様相は行った者でないとわからないと思います。
公私ともに救援活動に参加できないことがいまだに残念でなりません。
来週、地元の高校で日本の文化についてレクチャーを行います。
津波の被害に遭った人たちがとった秩序正しい行動、冷静さ、我慢強さは日本の長い歴史から培われた
文化に起因しているということをアメリカの高校生に伝えてきます。
私にできることはこれぐらいですが、救援活動のひとつととらえて拙い英語で頑張りたいと思います。
                                                      結手
                                        
サンアントニオ 5月9日(月)2011年                                                                                    
                                                              森

2011年5月8日日曜日

陸前高田の基地から NO2

合掌
5月2日 
夕方静岡県裾野市の道院、裾野市市議会議員の力強い応援が到着。
翌日の瓦礫処理の作業に参加することになりました。
一気に人数が増え、基地は活気付きました。

夜食事終了後、その日の反省を含めて当日基地に来た拳士間の交流を思い思いに話していた。

瓦礫の処理の方法において、藤井君が中心となり、短時間においての作業。ダンプが入れるように倒壊した家の前に車が入り効果的に瓦礫を積み込めるようにしたことが大いに作業がはかどることが出来た。

畳を敷いてやるようにという他のグループの威圧的な指導を我々に対して迫った人に対し、私は、畳を過信すると返って危険であることを伝え、それぞれのやり方でそれぞれのペースでやることがいいときちんとその御仁に
きっぱりと伝えた。
畳は海水で濡れて滑りやすく、且つ薄く下に釘を隠すこととなり釘を踏み抜く危険性が高くなることを我が仲間に伝えた。

少林寺グループはダンプ搬入口を確保する方法をとり大成功であった。
藤井君は張り切りすぎたか、兎に角馬力があり、つい釘を踏み抜いたようだ。本人はかすり傷といっていた。
私は靴の下敷きを鋼鉄のものを強いていたのでいくらか安心して作業をすることが出来た。翌日、藤井君はそうした靴敷きを買い求めに行った。
私は船上の経験があったことでそうした靴を履くことを覚えていた。
しかし、どんな靴も過信はよくない、また側面からの釘の攻撃は防御しにくいので気をつけられたし。
そうした、互いの協力を力強く感じながらの反省会であった。

総裁からは、「陸前高田に行かれましたか。被災地はどこも目を疑いたくなるような光景でしょう。何が出来るか見つけ出すしかありません。」

柏木先生とご家族の特にお嬢さんのことをご心配をなされ、
まだまだ不条理が続くのでしょうか。」と被災地を心配されていました。

夜、テントに移動就寝。

2011年5月7日土曜日

陸前高田、気仙沼唐桑半島柏木先生を訪問 1回目

合掌
4月30日から5月5日まで被災地へ、みんなの心を届けてきました。
4月30日の土曜日の滝川クラブの稽古終了後、
午後2時砂川を
北見の宮末さんの60系ランドクルーザー前後ウインチ付で午後2時に出発しました。
皆さんの支援物資を積み込み、自分用の食料、水を積み込み発ちました。
午後11時半の青函フェリーで4時間の船旅。

5月1日
午前4時には陸前高田を目指し、八甲田山を横断、八戸を経由し一般道40号線を走りました。
太平洋岸の被災地を最初に目をした時、テレビを通して見る映像とは全く違う光景を目にしたときの驚愕は今まで経験したことのないものでした。
延々と続く瓦礫の何も無いまち並みはただただ驚愕!
美しい三陸の海岸線は見る影も無いありようでした。
なすすべもなく命を落とした無念さをひしひしと感じました。

私はかつて海に仕事をした経験があります。
南氷洋は魔の南緯40度線は常に嵐を伴う津波の如くの荒れた海域です。
海にいるときはそれでも、うねりに船をたててゆっくり嵐が治まるまで進めれば沈むことはありません。
しかし、あれほどの大津波が陸地を襲ったなら人間の手には負えないのです。

時々車から降り、躊躇しながら撮影をしました。撮影は、なんとなく憚れる気がしました。
自分の住まいを解体するのか、寂しげにじっと見つめている姿が印象的でした。

午後1時ごろ、陸前高田の少林寺拳法の支援基地に到着。
北海道から既に来ていた苫小牧の松村先生、釧路の福田先生が支援活動から戻り今から北海道に帰るということで、基地で会うことが出来ました。
「池上先生より早く来なければと思い、早く来ていました。」と松村先生。

彼らは、青森から高速道路を使って来たとのこと。

私たちは、一般道を被災地を全て見ながら来たことを伝えました。
「本当に悲惨で考えられないと、直接見なければ分からない。」と話してくれました。

彼らと基地の前で記念撮影をして別れ、私たちは、宮城気仙沼の柏木先生を訪ねました。

基地から約1時間の距離で唐桑半島の柏木先生のお宅を探しながら漸く見つける事ができました。

自宅は海からかなり離れた小高いところに住まいがありました。
真っ赤な椿の花が一面に咲いた東北の独特の住まいでした。

先生が在宅され、おばあさん、奥様さん、お嬢さんとも皆ご無事の姿を拝見することが出来ました。
先生は私の顔を見てかなり驚かれたようです。まさか、突然自宅にやって来ることなど思いもよらなかったのも当然です。
旭川医科大の看護学部の学生であるお嬢さんがいらしたので最初安心しました。 友人の鵜野さんとのやり取りをブログに書いてありますのでお分かりのことと思います。
お嬢さんは甲斐甲斐しく、お茶やコーヒーを出して下さり、奥様と共に、ラーメンまで作っていただきました。

柏木先生から、津波のときの状況を詳しく話してくれました。海まではかなりの距離があります。遠く海の方向に見える道路を乗り越え自宅近くまで津波が押し寄せたとのこと、想像もつかない脅威でした。
先生の製氷会社が一瞬にして無くなり、先生も仕事を失ったとのことでした。一瞬にして人生が変わってしまったのです。それはお嬢さんにとっても同じことでした。

先生を訪問の際、手ぶらで来たことを謝罪し、基地においてきた支援物資を後日届けることを伝え、辞しました。
「本当にありがとうございました。」との言葉を聞き、来て良かったと宮末先生と同士相親しみ相援けの精神を思い浮かべました。

帰り際、奥さんが、「今年は例年になく、椿がたくさん咲き、そして、首を落としています。亡くなった人の数だけ真っ赤な椿の花が落ちているのでしょう。」
確かに、庭には悲しげに真っ赤に燃えるようなたくさんの椿花が落ちていました。

現地に赴き直接声を聞かなければ分かりません。
自分の安全を確保してから行くなど論外。
被災地の皆さんは必死に立ち直ろうとしています。
皆さんの心を届けることが最も勇気を与えることになるでしょう。

陸前高田に戻り、本部の藤井君と打ち合わせをしました。
「新井会長が、来られるのでその時に、池上先生の支援物資を柏木先生に届けてもらうことにしましょう。」
そうしてもらうことにしました。

5月2日

リンゴ園を営んでいる人家の瓦礫の撤去。瓦礫の浜辺をあっち行ったりこっち行ったりしながら漸く現地到着。作業を開始。

かなりの瓦礫、ひどい状況、強風により危険な作業。
しかし、みな、文句も言わず汗だくだくで作業。
埼玉の林先生が、トラックで来ていたために大いに作業がはかどる。
ますます強風、この日の作業は全て午後から強風のため危険と判断。
活動停止。

埼玉、茨城、北海道、とりわけ本部の藤井君、もと本部職員の後輩、本校武専の学生が参加しての作業。
夕食は、カレー。私たちはテントにて就寝。隣のテントが強風で飛ばされた。