2011年9月26日月曜日

森拳士からの近況報告

合掌

アメリカに派遣中の滝川道院森副道院長からのメールを紹介します。

森拳士留守中に、留萌の1981年生まれ、自衛官小山雅明拳士が初めて滝川クラブの稽古に参加しました。
新潟の道院に所属だった。
彼は10年程少林寺拳法の世界から離れていたのですが、今回正式に滝川道院に転籍復帰しました。
24日土曜日の朝稽古の様子!
鎮魂行の後、基本稽古の際も、力を抜くことなく、意識を体の芯に置くことで突き蹴りにも汗だくだくの様相であったことが参加した他の拳士は感じたことでしょう。
おそらく暫くぶりの鎮魂行も、その唱和の発声も自衛官らしい大きな声で!
これはこれは、技術的修正を加えるとかなり技術水準が格段伸びるのではないか。

森拳士にとっては、将来見込みのある拳士が一員となったことで帰国の楽しみがひとつ出来ました。
同じ滝川の自衛官酒井拳士にとっても良きことであったと言えます。
酒井拳士うかうかしてられなくなりました。
ひとりの一生懸命が雰囲気をガラッと変える力を有しています。

それだけに指導する私にとってもやり甲斐があります。

さて、森拳士の近況報告メール開示します。
合掌
米軍に混じっての教育がはじまり6週間ほどたちました。
言葉の弊害もさることながら、論理的に物事を考えることに慣れていないため
大変苦労しています。論理よりも「感情」や「印象」が優先する日本において必要な
教育は「リーダーの育成」、すなわち物事を論理的に考えて、自分の意見をしっかり
もち、発言できる人材の育成が今の日本に大事なのではないかと痛感しております
自分の意見が言えないのではなく、意見をもっていない。意見をもっていないから
発言できない。英語能力以前の問題。
なんとかがんばっていきたいと思います。
昨日、イラク、アフガニスタンで実戦経験を有している同じクラスの米兵に
少林寺拳法を指導する機会を得ました。
時間があまりなかったので簡単な剛法のみを教えましたが、柔軟性にやや欠けるため
センスはあまりいいほうではありませんでした。
やはりブラックベルトをもっているということで一目おかれています。
アメリカ軍人にとってブラックベルトは我々拳士が思っている以上に大変重みがある様です。
日本にいるとあまり感じませんでしたが、有段者としての自覚をしっかり持つべきだと
いまさらながら思いました。
今後機会があれば柔法を教えていきたいと思います。みな筋骨隆々なのでいい稽古になりそうです。
スガワラさんという男性の方から少林寺拳法を習いたいという電話が滝川の家にかかってきました。
今週の土曜日見学にいくと思いますのでよろしくお願いします。
ブログをいつも楽しみにしております。海外在住者にとって最高の法話学習資料です。
                                                 結手  森
このメールにあった、菅原君が土曜日の朝見学に来ていました。
私と、本人の希望を聞いて稽古前に少し話しました。
来週の土曜日にでも、弟さんと一緒に再度来ると言い残して鎮魂行、基本稽古を見学して行きました。
11時まで指導した後、新千歳空港に向かいました。
特別昇格試験等について、また、25日の帰りの高松空港で宗由貴総裁とお会いしました。そのことは次回にしましょう。

2011年9月21日水曜日

絶対事実の三つとは?坐禅とは?9月武専 倉本先生の思い出の3 続・子鹿物語 転籍拳士 自己確立

合掌

秋の空は、筋雲も美しい冷涼たる空気に満ちている。
北海道の最も刺激的な季節の変化が齎す美しさは例えようもない。
浦臼連山のピンネシリ、それに北西に背景として暑寒別の山並みが
くっきりと映える季節がやって来ました。

早朝の気温は10度を下回るあっという間の季節の変化。

9月の武専は、埼玉熊谷の菊地先生が本部派遣教師として見えられた。
3年ほど前に初めて北海道武専に派遣されたとのことをお聞きした。
どうも、私はその時の記憶がなかったので私も行事が重なったのではないかと思われる。
10月は私の武専の派遣先は埼玉である。
互恵関係の派遣か!
埼玉武専は私も以前一度行かせていただいたのだが、少林寺拳法の先進の地といっても過言ではない。
幸手の小坂先生も今や幽明境を異にしている。
若くしてと言いたいが、彼は彼の自己を全うしたのであり、よき人生であったのは言うまでもない。私の弟のような存在であった。

菊地先生は、技術確認の際、どうもその指導にあたる担当者の技術に難癖をつけるようで気がひけると言われた。
北海道の拳士にとっては、道院長、幹部拳士に関わらず謙虚に技術を確認したいのであり、決して批判を受ける感覚はないのでご心配の向きは気になされなくても良いのだが。
修行とはそうしたものなので、技術確認等の際、決して指導者だからといって勘違いをゆめゆめなされるな。

私は、武専研究院を担当した。
袖口捕、送閂小手、上膊捕の掛手の理論を断じた
同じ理論手法が成されなければ無意味であることを、体感させるように指導した。
どうも、まだまだ、研究の域を脱する心識の修行が不足かなと思われる。
まだまだ始まったばかりなので仕様がないのだが。
この中から早く全国を巡回できる技量、心力を身につけてもらいたいものだ。
ただ、今の研究院の学生は誰一人として弱音を吐くような輩は一人もいないことが頼もしい限りである。
武専研究院に菊池先生が来られたとき、お任せし、しばし、予科の方に顔を出してみた。一人の拳士が送小手を掛けて欲しいとの希望あり。
指導したのだが、やはり予科の拳士にとっては難しいもののようである。
しかし、将来が楽しみである。旭川北の拳士であったか!いつものやり方とは違うという感覚を得てくれたなら嬉しいのだが。

倉本先生の思い出
昔のことはなかなか思い出すのがだんだん難しい。
最近、「北の国から」が、何十年ぶりでBSで再放送されているのをみて、思い出の振り返りを試みているのだが。
25日のクリスマスの夜、砂川の道場で、「昨日、悲し別で」のドラマ作りのための取材のような話であった。
砂川を中心に滝川。そして上砂川、歌志内、赤平、芦別の広域を悲別のひとつのまちとしてドラマが展開する。
北の国からのドラマの合間に炭鉱町を舞台にしたドラマであることは明白だった。

私もロケハンのお手伝いをすることとなった。日本テレビのロケハン担当者と打ち合わせをして、希望の地を紹介し案内したもので、そのドラマの撮影が始まってから、現場に直接行って撮影を目の当たりにした。
晴見の道場の前にも、ドラマの主役三人、天宮良、梨本謙二郎、布施博の三人が集まった。三人ともこの作品がデビューの作品であったようだ。
長男の航洋はまだ小さいときで天宮君に抱っこされた写真が残っている。
砂川市内のロケが一番多かったようだ。
砂川駅、砂川駅前の喫茶店、砂川駅のモーテルの前、東晴見の農村勤労センター前、吉野の橋の上。それぞれの場所で、大滝秀治、五月みどり、斉藤恵子それから、、、名前が思い出せない。西田敏行の釣り馬鹿の最初の奥さん役の女優。そのうち思い出すだろう。
ドラマの撮影時の思い出は次の機会に。

さて、3日前、歩行禅の途中、雌鹿親子発見しました。同じ場所で食餌をしているのを確認しました。子鹿物語は続いています。
そして、雌鹿3頭を昨日発見しました。これは、墓地のそばのそば畑と林の端のところでの発見。先日交通事故にあったのはこの家族の一員であることは場所の関係からして間違いないようです。
ビデオ撮影をしてあります。機会があればお見せしましょう。

パンケ歌志内川で、一昨日カワアイサの雌6羽発見しました。
そして今朝5時半頃、いつも出くわすキタキツネの映像も撮りました。
自宅周辺は、いわゆる野生の宝庫のようです。

先週の土曜日の滝川クラブの稽古の際、留萌の自衛官が転籍したいとのことで訪ねて来ました。
10年ぶりの復帰とのことです。
この日の内に本部と連絡を取り、転籍手続きを済ませました。
1982年生まれの小山拳士、少拳士弐段、新潟出身とのことです。
挨拶では、みなの前で開祖の話をした本格的な拳士ではないかと楽しみであります。
留萌から通うとのことで、早速拳法着、二重胴を購入するとのことを嬉しそうに電話で話していました。
将来、こうした拳士の活躍で留萌にも道場ができれば良いのですが。

少林寺拳法を継続していくのはひとりひとりの心識のことであり、それが強いか弱いかは個々人のことである。
よく仕事が忙しい、何かがあってどうも等というのは、単に自分に対する言い訳であり、真に忙殺されるが如くの他者に対しては全くもって恥ずかしいことであろう
開祖の思いを今に生かそうとして、修行再開する拳士にとって、自己の存在を確認できる時間をつくることになる。

「自分と自己」は全く異なる。
自己を単に自分のことであるという認識は変えてもらわなければならない。
自己確立の道は今をどう生きるかによって全く異なるのである。
人生はひとりひとりのものであり、後悔しない人生を送ることで、自身・身体を取り巻く環境に自己の心識をつくりだすことになるであろう。

        ひとは生まれて生きて死んでゆくだけである

しかし、今の世の中生まれて、苦しんで、死んでゆくことの多いことよ。

経済的要求の成功を願う人生では、真の豊かな人生」を全うすることはかなうまい。

釈迦の仏法

絶対事実

絶対事実の1 我思う故に我あり。
絶対事実の2 思う我は死ぬ。
絶対事実の3 湧出事実 
  
生きていく中で湧出するものを解き放つのが修行であり、仏法そのものである。
  
  自己の意味は、ただ単に自分のこと、自分の身体のことではない。
  
  自己が自己を自己するのが禅の本質である。
  
      参禅するとは、坐禅に参ったをすることである。

坐禅をして悟る等という誤った参禅は全くもって意味もない。

ただ、坐禅をするのみであり、本尊はその坐禅の姿そのもの、そのまま

偶像崇拝は、釈迦の説かれた仏教ではないことを銘記されたい。

合掌再拝 池上治男

稽古情報
23日金曜日は祭日ですが、旭川南から生徒を連れて出稽古に
来ると電話がありました。
 やりましょう!
 19時ではなくて、18時半より稽古開始します。
 稽古に来れる拳士はふるってどうぞ!
 自主的稽古は可能。
 
 24日土曜日は道院長は稽古09:30~11;00
  道院長が本部に出張のため、少し早めに新千歳空港に向かいます。
 25日日曜日 四国多度津の本部にて特別昇格試験の考試員を担当

2011年9月12日月曜日

子鹿物語 凛々しかった柴犬 紅天海

合掌

北海道の秋もさらに深まり、今日12日十五夜の朝はかなり冷え込んだ。
朝の歩行禅も長袖を身に纏わなければならないほどの寒さだった。
早朝5時半のことなのでなお更である。
さて、朝の散歩であるが、9月ともなると近くで生まれた鹿の姿も
山の中に移動したとみえて、あまり目にしなくなって来ていたのだが
9日の朝のことである。
家を出てから歌志内方面に向かい、パンケ歌志内川の橋を越え、
戻ろうとしたときに、2~30メートルくらい先の道路上に嫌な予感が
横たわっていた。
近づいたところ、予想的中、雌鹿の親子が車に撥ねられて息絶えていた。
恐らく大型トラックに一緒に撥ねらたものと思われる。
母鹿の方が内臓を破裂させた状態であり、子鹿の方は衝撃で
死んでいるのが出血していないことから判断できた。
母鹿の状態からして車に引きずられた生々しい痕跡が道路上に
見受けられた。
この親子はいつも春先から私が観察していた親子であるのに
違いなかった。
早朝、パンケ歌志内川に親子で連れ立って水を飲みに行こうとしたか
行ったか、その際に大型トラックに撥ねられたものであろう。
乗用車であれば、車がかなり損傷し車の破片が落ちている
はずなのだが、それは見受けられなかった。

砂川市役所に警備担当しかいない早朝であるのを知っていたが、
カラスが彼女らに付かないうちに処理したほうがよいであろうと思い
自宅に急いで戻り電話した。
鹿の状態によって対応の仕方が異なる。
まだ息があり生きているときは、市役所が対応するが、
既に死んでいる場合は、道路公団の所轄になる。

いずれにしても道路交通上危険な状態にあり、
また、砂川市内においては現在鹿の有害駆除の対象になっている
ときだけにその処理は微妙なのである。

一応、砂川猟友会の事務局をしている喫茶店インパラの藤井さんにも
電話連絡(留守電)した。
役所からのこうした依頼は即猟友会の事務局にくることが
通例であるからである。
鹿のこうした車両衝突による悲劇が年々多くなって来ている。
それだけ、道東の鹿が空知管内にも劇的に移動、増加しているのを
物語っている。

人の住む安全な近所の林で生まれたひとつの小鹿物語は悲劇の
うちに終わった。

この鹿の家族と仲のよかったもうひと家族がまだいるのを知っている。

野生動物がひとと共生ができない出来事なのか、
単なるひとに責任ある交通事故なのか、あるいは悪質な速度違反を
伴う悪質な事故なのかはわからない。
その命を奪った車両は警察にも届けることなく立ち去ってしまった
ことは事実である。

昨年の春、隣接する渡辺さんの水田の畦道を、バンビが二頭
追いかけっこをしたりしながら、元気に走り回っているのを
わたしは何度も見た。
そのひとつの雌鹿の親子であることは間違いない。

この道路は、私の愛犬だった、札幌北都道院の成田實先生に
いただいた柴犬 天海が、今外国で仕事をしている長男航洋と
散歩中に車に巻き込まれて犠牲になった道路である。
150メートルと離れていない場所なのである。

その車も天海を撥ねたまま走り去った。
息子から連絡をもらい、道路に横たわっていた天海を
抱きかかえたそのときのことを今でも鮮明に覚えている。
即死だった。
泣いていた息子の姿も痛々しかった。
航洋も帰国するたびにその現場に行っているようである。

私は毎朝その場所を歩行禅の場所としているのである。
人間を撥ねたなら、それこそただ事では済まないのだが!
長男はもちろん、家族皆から愛されていた天海を失ったショックが
しばらく続いた。
成田先生には、後日報告したのだが、何とも残念なことであった。
誠に申し訳なく思ったものである。
長男の部屋には、天海の凛々しい姿の写真が飾られている。

長女詩帆の二番目の1歳半の娘、私には3歳の孫、聖夏(せな)の
妹、安海(あんみ)が天海の名前、海を使っていることを
今これを書いていて気がついた。

哀れ雌の親子の鹿。
そしてこの死を通して思い出された紅天海。
同じ道路で逝った愛すべき動物たち、この死を通して私たちに残した
こととは何なのか?

さて、、、武専、倉本聰先生の思い出は次回に書き込みます。

松林拳士が砂川に稽古に行きますと武専会場で言っていた。

北海道少林寺拳法連盟のホームページが改定されたとのこと。
どのようになったか後で見てみたい。

合掌再拝 池上治男

9月13日以後の稽古は予定通りです。
すべて日程において指導参坐します。
9月24日の滝川の稽古後、本部に向かいます。
9月25日の本部特別昇格試験の考試員を務めます。

2011年9月3日土曜日

2011年9月 倉本先生との思い出・北大少林寺拳法部合宿、義理の兄の死

合掌
まず、倉本先生との思い出についての続き
昭和58年の12月25日雪の降りしきる中、自宅前の道場に倉本先生ひとりで車を運転してやって来ました。
私が「凄い車ですね。」と言ったら先生は「いやトラックじゃありませんよ。」と何か聞き間違いをされたようだ。
私が言ったのは可也の吹雪の中をそれも暗い中、ランドクルーザのような車に見えたので凄い車ですね。この雪の中雪をものともせずやってくるのは凄いと感じて最初の会話がそれであった。
車は、四輪駆動の左ハンドルのベンツであったのがすぐに分かった。
皆さん、人に会うときに印象に残る設定は大事であることがお分かりか?
クリスマスの夜、しかも吹雪の中の箱型の四輪駆動のベンツで現れるなど、絵に描けるような登場の仕方ではないか。
この人が、日本中を圧巻させることになる倉本先生なのである。

で、道場に入り、当時、道場は薪ストーブそれも安物の薪ストーブである。
ただ、安物であっても寒いクリスマスの夜にはもってこいの暖房である。
倉本先生のログハウスも勿論薪ストーブであったに違いない。
北欧の本格的なものであったであろう。
我が道場のストーブは安物なので薪が一気に燃えてしまい部屋の中が熱くはなるのだがせっかくの薪の効率の悪い燃焼状態であった。
先生は、それを見てストーブの前の薪投入口を開け放った。そうすると、燃え方が遅くなると言うのである。それは分かっていたが、ところが悪いことに、煙が充満する羽目になった。せっかくの先生の申し出でもあり、ややしばらく煙我慢の時が過ぎていった。

道場で早速ドラマについての先生の話が始まりました。
このとき、私の他に当時の砂川の中川市長にも同席を頂いた。ドラマが砂川にも関わることになるのでということと、当時の市長は一期目の頃であった。

ドラマの舞台は砂川を中心とする周辺の炭鉱町を舞台にする若者の青春グラフィテイであること、ドラマの町の名前が「悲別」。
実は、これが参った。
当時、上砂川町は、閉山の話が進み、尚、国鉄砂川~上砂川、砂川~歌志内の鉄道がまだあった時代の話である。
悲しい別れと名のつくドラマの協力を、流石の上砂川町出身の私には少し考えさせられるものであったからである。
砂川の名前は実名となるようであった。
続きは次回。

北大少林寺拳法部の合宿の指導に行ってきた。8月27日の滝川クラブの稽古の後大雪青少年交流の家に向かった。
旭川経由がいいか富良野経由がいいか迷ったが旭川経由で美瑛町に向かった。
北大の少林寺拳法部の今年の合宿には、監督の野坂君と私、そしてOBの三浦君が指導に当たった。
私の指導は、学生のレベルを見て基本を正しくという意味、つまり出鱈目を何回も練習しても出鱈目がうまくなるだけ、練習ではなく稽古であることの意味を説明した。
なぜ少林寺拳法の演武が護身に有効であることも理解されたなら嬉しいのだが。
宗教の法話においても仏教の本来についても、学生であることの強みで研究することを勧めた。
短い期間ではあったが、自身有意義な時間であった。

滝川道院、砂川道院も以前のように合宿を通して視野を広げることも大事ではないかと久しぶりに感じた。

昼食の時に、学生に「倉本聡先生や北の国からのドラマを知っているか」と尋ねたら全く知らないという応えが返ってきて野坂君共々驚くばかりであった。
これが、今の時代なのだという現実を知った。
それでいいのだろう。

水曜日の稽古の途中に妻からの電話に驚いた。
妻の兄が意識不明で救急車で運ばれたと言うのである。

残りの稽古の時間を頼んで、妻と札幌に向かい手稲けいじんかい病院に到着。先に救急病室に向かっていた妻の兄の顔に手を当てて号泣する姿を目にした。
山本隆二、妻にとってはたった一人の実の兄、私より若いのであるが、55歳の人生であった。
救急救命室のあっけない対面であった。
兄の顔にすがりついた妻が痛々しかった。

2日通夜、3日葬儀をベルコ麻生シテイホール、私が葬儀委員長をやることになった。
身内との別れが続いてしまった。

今のおかれた風景をかえることはできない、あるがままを受け入れ、それを乗り越えていくことしかできない。
一切が自己、自己を自己することが真の仏教の真の姿。
人生何が短く何が長くなどとは決めることなどできない。

さて、これから母と雨の中会場に向かうとしよう。

合掌再拝 池上治男