埼玉武専に派遣出張しました。
台風一過の週末、埼玉武専に参坐しました。
埼玉の小宮山先生、倉田先生、矢嶋先生、赤崎先生には北海道武専にて指導を頂いています。
埼玉の先月の武専の派遣教師は、北海道野坂先生でしたので連続の有縁の地であったことになります。
個人の尊厳を通しての、人づくりにによる理想境の建設が講義主題でした。
講義内容
個人の尊厳は、年齢の差等関係なく、誰にでもそれを持っていることを学ぼうとしない。
小さな自分を中心に、他者との関係を従属的に考えがちな発想で、自分の主義主張だけを尊厳だと思い込む危険を孕んでいる。
自分より弱いものを徹底的に敵視し、相手が反論できない事をいいことに輪をかけて押しつぶそうとするものが坐にあると言いようもない情けない気持ちになる。
弱者に教え諭すこともできない一個の自分が中心となり、「自我」そのものである者が上に立つと悲劇が生じる。
「自我確立」している自分に気がつかず、相手の非だけをあげつらうことでは、少林寺拳法の教えの基本である「自己確立」とは程遠い。
自我にまみれた自身の 存在:釈尊の教えの「慈悲」を所有していないことであることすら理解していないのは悲しいことである。
自我は閉鎖的孤立的な存在。
他人の悲しみ、苦しみに共感しない限り真の個人の尊厳は有り得ない。
この自我の考えを否定してゆくのを「空ずる」という。
「空」には自我から開放された自由、つまり観自在菩薩としての修行者=真実の人間性の保持者として信頼を得る事のできるひととしての生き方を表現していると言える。
自己に目覚めることを「自覚」というのである。
半ばは他人のためにという奥深さに気がつかぬ者は、「自我」の塊であることを自覚しなければならない。慈悲のない自我の指導は厳に慎まねばならない。
感情をの心ではない、自我と自己を持つ自分の自我の奥深くある自己(こころ)を求め、真実の人間性に目覚めることが、人生の理想境の姿である。
少林寺拳法の指導者は、他人への思いやりを忘れず、、自我から声を発してはならない。
相手の信頼を得る事など到底できない。
たいしたことのないことに、目くじらを立てる前に、拳士は誰であっても中途半端な修行ではない真の修行者としての自己に厳しい参坐をしようではありませんか。
研究科での稽古風景を紹介します。技術に対する意欲は旺盛!
講義中の黒板書は埼玉大学の学生拳士にお願いしたものである。
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